打ち上げられていたのは、身元のない男だった
1948年12月1日、朝6時30分。
オーストラリア、アデレード近郊のサマートン・パーク・ビーチ。
早朝の散歩に出た夫婦が、防波堤にもたれるようにして横たわる男を見つけた。
足を組み、まるで眠っているだけのような姿勢だった。
上着の襟には、吸いかけの煙草が一本、そっと乗せられていた。
近づいても、男は動かなかった。
身なりは良い。仕立ての良いスーツに、磨き上げられた靴。
だが、財布もなければ、身分証もない。
服のタグは、すべて切り取られていた。
誰も、この男が誰なのか分からなかった。
概要
これは、”タマン・シュッド事件”、あるいは”サマートン・マン”事件と呼ばれる、実在の未解決事件だ。
遺体の身元は長らく不明のまま、隠しポケットからは詩集の切れ端、そして解読不能の暗号が見つかった。
暗号の手がかりをたどると、ひとりの美しい看護婦にたどり着く。彼女は、警察に何も語らなかった。
冷戦下のオーストラリアでは、この男はスパイではないか、彼女の”秘密の恋人”ではないか、という噂が渦巻いた。
謎はおよそ74年間、解けないままだった。
そして2026年の今も、事件は完全な決着を見ていない。
隠しポケットの中の「終わり」の言葉

司法解剖の結果、男は40代前半、身長180センチ近く、赤みがかった髪に灰色の瞳。
体つきはがっしりしており、特にふくらはぎの筋肉が発達していた。ダンサーか、ブーツを常用する仕事の人物ではないか、と推測された。
胃の中には、死亡の3〜4時間前に食べたパイのようなものが残っていた。
内臓には激しいうっ血が見られ、解剖医ジョン・クリーランドは、毒物――おそらく強心配糖体系の、ジギタリスやウワバインのような希少な物質――による死亡を疑った。
だが、当時の毒物検査では、何の成分も検出されなかった。
事件から数ヶ月後、警察は男のズボンの、隠された小さなポケットに気づく。
そこには、きつく丸められた紙片が入っていた。
書かれていたのは、”Tamám Shud”。ペルシャ語で「終わった」を意味する言葉だった。
一冊の『ルバイヤート』と、解読不能の暗号
この紙片は、詩集『ルバイヤート』(オマール・ハイヤーム著、エドワード・フィッツジェラルド英訳)の、最後のページから破り取られたものだと判明する。
新聞での呼びかけの結果、ある男性が「自分の車に、見覚えのない本が置かれていた」と、1941年版の『ルバイヤート』を警察に届け出た。
車は、遺体発見現場のすぐ近くに、鍵をかけられないまま停められていたという。
本の裏表紙には、鉛筆で書かれた跡がうっすらと残っていた。
大文字だけの、5行の文字列。
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MLIAOI(取り消し線)
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MLIABOAIAQC
ITTMTSAMSTGAB
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これが、いまだに解読されていない”サマートン・マンの暗号”だ。
1978年、オーストラリア国防省の暗号専門家は、「有効な答えを出すには、記号の数が足りなさすぎる」と結論づけた。
2004年、元刑事のゲリー・フェルタスは、最後の行を「It’s Time To Move To South Australia Moseley Street(南オーストラリア、モーズリー・ストリートに引っ越す時が来た)」の頭文字ではないか、と推測した。
だが2014年の分析では、この文字列はやはり単語の頭文字を並べたものである可能性が高く、元の意味は「もう誰にも分からないだろう」という結論に落ち着いている。
裏表紙には、もうひとつ手がかりが残っていた。かすれた、電話番号だ。
電話番号が導いた、一人の看護婦
警察がこの番号をたどると、ひとりの女性にたどり着いた。
ジェシカ・エレン・トムソン(旧姓ハークネス、1921〜2007年)。
遺体発見現場から400メートルほどの場所に住む、看護婦だった。
当時30代前半。界隈で評判の、美しい女性だったと伝えられている。
刑事たちは、彼女に石膏で作った男の胸像(死後、身元特定のために作られたもの)を見せた。
その瞬間の彼女の様子を、担当刑事ライオネル・リーンはこう記録している。
「完全に不意を突かれた様子で、今にも気を失いそうな表情だった」
彼女は目をそらし、二度とその胸像を見ようとしなかった。
それでも、彼女はこう言った。
「この人を知りません」
彼女は、大戦中に同じ1941年版の『ルバイヤート』を所有していたことを認めた。
1945年、シドニーのホテルで、陸軍中尉アルフ・ボックスオールにこの本を贈り、「JEstyn」と署名していたという。
だが、目の前の男が誰なのかについては、最後まで口を割らなかった。
警察は1949年、彼女の求めに応じ、名前を永久に伏せることに合意する。
以後、彼女は数十年にわたり、”ジェスティン”という仮名でのみ語られることになった。
## もう一人の男、アルフ・ボックスオール中尉
当初、警察は遺体をボックスオール本人ではないかと疑った。
だが1949年7月、シドニーで本人が発見される。彼は無事で、しかも自分の『ルバイヤート』(1924年版)を、”Tamám Shud”のページも欠けることなく持っていた。
ただ、彼の経歴には、少し気になる点があった。
陸軍の記録によれば、彼は北部オーストラリア監視部隊(NAOU)という特殊部隊に配属されており、伍長から中尉へと、わずか3ヶ月で昇進していた。
これが、後の”スパイ説”に、ひとつの燃料をくべることになる。
## 冷戦の匂い――スパイ説が生まれた理由
事件が起きた1948年は、冷戦が本格化しつつある時期だった。
翌1949年には、ソ連のスパイ活動への懸念から、オーストラリア保安情報機構(ASIO)が発足している。
アデレード近郊には、ロケット実験場ウーメラや、ウラン鉱山ラジウムヒルといった、戦略上重要な施設があった。
南オーストラリア州警察の元警視、レン・ブラウンは、「この男は東側諸国の出身者ではないか。だからこそ、身元が確認できないのだ」という見方を示している。
指紋を含め、当時の記録と照合しても、男の身元は一切浮かび上がらなかった。
こうした状況が、「彼はスパイだったのではないか」という憶測を後押しした。あくまで状況証拠からの推測であり、確たる証拠があるわけではない。
## 隠し子説――息子が受け継いだ、1万人に1人の特徴
2013年、ジェスティンの娘ケイトが、テレビの取材にこう語った。
母は警察に嘘をついていた。本当は、あの男が誰か知っていたはずだ、と。
母もあの男も、実はスパイだったのではないか、とも示唆した。
さらに注目されたのが、ケイトの兄、ロビン・トムソン(1947年7月生まれ)の身体的特徴だった。
ロビンには、珍しい特徴が2つあった。ひとつは、耳の上部のくぼみ(シンバ)が下部のくぼみ(カブム)より大きいという、白人の1〜2%にしか見られない形状。もうひとつは、上顎の側切歯が生まれつき欠けているという、人口の約2%にしか見られない特徴だ。
研究者デレク・アボット教授が2010年に調べたところ、サマートン・マンの遺体にも、この両方の特徴が確認された。
偶然この2つが一致する確率は、報道によって「1万〜2万分の1」「1000万〜2000万分の1」など幅はあるが、いずれにせよ極めて低い、と専門家は試算している。
ここから、「ジェスティンとサマートン・マンの間に、密会と隠し子があったのではないか」という説が生まれた。
後日談――教授は、”証人候補”の孫娘と24時間で結婚した
この隠し子説を追いかけていたアボット教授は、ロビンの娘、つまりジェスティンの孫にあたるレイチェル・イーガンさんに接触する。
「あなたのDNAが、謎を解く鍵になるかもしれない」
そう伝えられたレイチェルさんは、半信半疑のまま、教授と食事を共にすることになった。
そして、意気投合。
なんと、出会ってから24時間以内に結婚してしまう。
その後、2人の間には3人の子供が生まれた。
事件の調査が、現実の家族を生んだという、なんともドラマのような展開だ。
ただし、肝心のDNA鑑定では、レイチェルさん自身には、ロビンやサマートン・マンに見られたあの耳や歯の特徴は遺伝していなかった。
隠し子説は、この時点でかなり分が悪くなっていた。
## そして2026年の今も、事件は完結していない
2022年7月、アボット教授は新たな発表を行う。
石膏の死亡マスクに残っていた毛髪から、DNA系図調査によって、男の正体を特定したという。
名前は、カール「チャールズ」・ウェッブ。電気技師であり、計器製作者。
1905年11月16日、メルボルンのフッツクレイ生まれ。父はドイツ・ハンブルク出身の移民だった。
1941年、薬剤師で足病医のドロシー「ドフ」・ロバートソンと結婚。
だが、ドロシーが後に提出した離婚申立書には、まったく別の顔が記されていた。
物静かで一人を好み、毎晩7時には就寝する。だが同時に、気分にムラがあり、勝負事に負けると暴力的で威圧的になった。
詩を愛し、「死こそが自分の最大の望みだ」と繰り返し書き記していたという。『ルバイヤート』を持っていたことと、奇妙に符合する。
1946年3月には、エーテルの過剰摂取による自殺未遂も起こしている。看病したドロシーに、彼はかえって当たり散らしたという。
同年9月、ドロシーは、長年の虐待を訴えて家を出た。
ウェッブの人生には、立て続けに喪失があった。
兄ロイは、1943年、ビルマで日本軍の捕虜として強制労働に従事し、亡くなった。
姉の息子(甥)も、同じ1943年、イギリス空軍勤務中に命を落としている。
アボット教授は、こうした喪失の連続と離婚の破綻が、ウェッブの精神状態を追い詰めたのではないか、と推測している。
司法解剖の所見や、彼の人物像を重ねると、専門家の間では、サマートン・ビーチでの死は、毒による自殺だった可能性が高いとみられている。
「地味な真実」と、まだ残る空白
スパイでもなければ、恋の逃避行でもない。
浮かび上がったのは、家庭内の暴力と孤独の果てに、ひとり浜辺で命を絶った、ひとりの技師の姿だった。
ロマンチックな都市伝説からすれば、拍子抜けするほど、地に足のついた結末だ。
ただし、これは2026年9月時点でも、まだ「確定した結論」ではない。
南オーストラリア州警察は、この鑑定結果について、2026年になっても正式な確認を終えていない。
2026年7月の報道によれば、警察は検死官への報告書を「近日中に」提出する予定で、検死官の判断は「年内には」示される見通しだという。
アボット教授自身は、「99.99%の確信がある」としながらも、こう認めている。
「なぜ彼がアデレードに来たのか、なぜ死んだのか。おそらく、それは永遠に分からないままだろう」
そして、あの暗号もまた、いまだに解かれていない。
## まとめ
浜辺で見つかった身元不明の男。
隠しポケットの「終わり」の言葉。解けない暗号。
美しい看護婦の、凍りついた沈黙。
冷戦下のスパイ説、そして隠し子説――物語としては、これ以上ないほどロマンチックな筋書きだった。
だが74年の時を経て浮かび上がったのは、家庭内暴力と孤独に追い詰められた、ひとりの人間の、静かな最期だった。
それでも、事件は完全には終わっていない。
正式な決着は、2026年内に出るかもしれない見通しだ。そして、あの5行の暗号だけは、この先も”Tamám Shud(終わり)”を迎えないままかもしれない。
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## 出典・参考情報源
– [Somerton Man – Wikipedia(英語版)](https://en.wikipedia.org/wiki/Somerton_Man)(発見時の状況、解剖所見、暗号の文字列、ジェスティンの反応、隠し子説の統計的試算、ウェッブの生い立ち)
– [The Mysterious Death of the Somerton Man – Mental Floss](https://www.mentalfloss.com/article/71520/mysterious-death-somerton-man)(胸像を見せられた際の反応の描写)
– [The Mystery of the Somerton Man – Compact Histories](https://compacthistories.com/mysteries/the-mystery-of-the-somerton-man/)(胸像を見せられた際の反応の補強)
– [‘Did he marry me for my DNA?’: How one woman could crack the Somerton Man mystery – ABC News (2019)](https://www.abc.net.au/news/2019-10-15/a-marriage-and-a-mystery-somerton-man-romantic-twist/11377458)(アボット教授とレイチェル・イーガンさんの結婚の経緯、DNA不一致の事実)
– [Somerton Man Charles Webb’s true identity revealed in family photographs and divorce papers – ABC News (2022)](https://www.abc.net.au/news/2022-11-21/somerton-manfamily-photographs-revealed-/101643524)(チャールズ・ウェッブの生涯、離婚申立書の内容、家族の喪失)
– [Somerton man mystery ‘solved’ as DNA points to man’s identity, professor claims – CNN(2022)](https://www.cnn.com/2022/07/26/australia/australia-somerton-man-mystery-solved-claim-intl-hnk-dst)(2022年発表の概要)
– [Have Scholars Finally Identified the Mysterious Somerton Man? – Smithsonian Magazine](https://www.smithsonianmag.com/smart-news/have-scholars-finally-identified-the-mysterious-somerton-man-180980540/)(識別手法の補足)
– [SA Police report to coroner into Somerton Man case complete ‘very soon’ – ABC News (2026)](https://www.abc.net.au/news/2026-07-06/sa-police-report-coroner-into-somerton-man-case-very-soon/106869302)(2026年7月時点で警察・検死官による正式確認が未了であること、年内に見通しが出る予定であること、アボット教授の”99.99%の確信”というコメント)
※ジェスティンが「美しい女性だった」という人物像については、当時の捜査記録に容姿への直接的な言及は見当たらず、後年のドキュメンタリーや紹介記事で広く共有されているイメージとして扱っています。断定的な事実としてではなく、「そう伝えられている」という距離感で記載しています。
※隠し子説にまつわる一致確率については、報道によって「1万〜2万分の1」「1000万〜2000万分の1」など数値に幅があり、統一された一次資料の数値は確認できていません。いずれも「偶然とは考えにくい低さ」という趣旨で報じられている、という前提で扱っています。
