

中国神話には、天地そのものを切り開いたとされる巨人がいます。名前は盤古(ばんこ)。今では中国神話を代表する創造神として、誰もが真っ先に思い浮かべる存在です。ところが、この盤古が文字として記録に残ったのは、驚くほど遅いのです。
確実な記録は、三国時代
盤古の名が確認できる最古の記録は、三国時代・呉の学者、徐整(じょせい)が著した『三五暦記(さんごれきき)』と『五運暦年記(ごうんれきねんき)』。中国神話の中で最も古い存在であるはずの盤古が、記録としては後発の部類に入るという逆転現象が起きています。原本はどちらも早くに失われてしまいましたが、後世の『芸文類聚(げいもんるいじゅう)』や『太平御覧(たいへいぎょらん)』といった類書に引用される形で、その内容は今日まで伝わっています。
混沌の卵から生まれた巨人
『三五暦記』によれば、天地はまだ鶏の卵のような混沌とした状態でした。盤古はその中に生まれます。1日のうちに9回姿を変え、1万8千年という気の遠くなるような歳月をかけて、天と地はそれぞれ1丈ずつ広がり続けました。盤古自身もその間、天地とともに伸び続けたといいます。澄んだ陽の気は天となり、濁った陰の気は地となりました。天地が極まるほど高く、深くなったとき、ようやく盤古の体も極まったといいます。
死んで、世界になる
盤古神話の核心は、彼の死後にあります。『述異記』にはこう記されています。頭は四つの山岳に、目は太陽と月に、体の脂は川や海に、髪は草木になった、と。異なる伝承では、頭は東の岳に、腹は中央の岳に、左腕は南の岳に、右腕は北の岳に、足は西の岳になったとも語られています。さらに涙は川に、息は風に、声は雷に、瞳は稲妻になったという説もあります。喜べば晴れ、怒れば曇る ― 天候さえも、盤古の感情の名残だとされました。
今も広東省の桂林には盤古を祀る廟があり、南海には300里余りにわたって続く盤古の墓が伝わっているといいます。人々は今なおそこで盤古を祀り続けています。
地域によって違う顔
『述異記』はさらに、地域ごとに異なる伝承を書き留めています。「呉楚(ごそ)の間ではこう言う ― 盤古は夫婦であり、陰陽の始まりである」。一人の巨人が死して世界になったという話とは別に、盤古を夫婦の対の存在として語る地域もあったということです。ひとつの物語として語られがちな盤古神話も、実際には地域ごとに姿を変えながら伝わってきた痕跡が、こうして文献の端々に残っています。
盤古はどこから来たのか
盤古神話をめぐっては、今も学術的な論争が続いています。記録として現れた時期があまりに遅いため、「これは本当に中国オリジナルの神話なのか」という疑問が古くから投げかけられてきました。中原起源説、南方伝来説、インド起源説、北欧起源説など、さまざまな立場の研究があります。
巨人の死体から世界が生まれるという「死体化生」の物語形式は、実は世界各地に見られます。インドのリグ・ヴェーダに登場する原人プルシャ、北欧神話の巨人ユミル、そして日本神話のオオゲツヒメ。いずれも、死んだ体から世界の構成要素が生まれるという同じ骨格を持っています。この類似性から、盤古神話はインドの神話が伝播したものだとする説を有力視する研究者もいます。
一方で、1986年に発表された饒宗頤(じょうそうい)による研究では、盤古に関する図像や言及が後漢末の興平元年(西暦194年)まで遡れる可能性が示されました。徐整が記録する以前から、口伝としてはもっと古くから存在していた可能性があるということです。
結論の出ない神話
中国文化がインドの神話を取り入れて独自に発展させたのだとしても、それは単なる借り物というだけでは片づけられません。むしろ他文化の要素を吸収し、自らの文化として育て上げる懐の深さこそ、盤古神話が体現しているものなのかもしれません。」
天地を切り開き、その身をもって世界そのものになった巨人。その起源をめぐる論争に、まだ誰も最終的な答えを出せていません。

