サボテンの上のワシは、本当にいたのか
メキシコの国旗の中央には、サボテンの上に止まったワシが、ヘビをくわえて描かれている。
これは単なる国のマークではない。アステカ、正式にはメシカと呼ばれる人々の建国神話そのものだ。放浪の末にたどり着いた約束の地で、神のお告げどおりの光景を見つけ、そこに都を築いた。そういう話になっている。
伝承によれば、その日付は西暦1325年3月13日。「二軒(オメ・カリ)」の年。メシカの人々はこの日、湖に浮かぶ島にテノチティトランを建てた。今のメキシコシティが、その真上にある。
きれいな話だ。神に選ばれた民が、約束の地にたどり着く。でも、考古学と歴史学がここ数十年で積み上げてきた記録を照らし合わせると、この物語はかなり違う顔を見せ始める。
今回から3回に分けて、この神話の裏側まで踏み込んでいく。前編は「神話と実際の記録が、どこでどう食い違うのか」。中編は「なぜ彼らは、あそこまでして生贄を捧げたのか」。後編は「その神話が、なぜ今もメキシコの国旗の中心にいるのか」。多少、後味の悪い話も出てくるが、それも含めて記録に残っていることだ。
まず、細部に入る前に、今回分かったズレを一覧にしておく。
| 項目 | 神話の主張 | 実際の記録・考古学 |
|---|---|---|
| 建国の経緯 | 神ウィツィロポチトリのお告げに従い、約束の地を見つけて都を築いた | 先住の都市国家に土地を取られた後発の移民集団が、傭兵として使われた末に追放され、誰も欲しがらなかった沼地の島に住み着いた |
| 島の状態 | 神が示した、誰もいない特別な土地 | メシカが来る前から、他の集落が既に存在していた |
| 神話が語られた時期 | 建国と同時、1325年 | 実際に体系化されたのは1428年、アスカポツァルコを破り三国同盟を結んだ勝利の後 |
| 古代文明との血縁 | トルテカ帝国など由緒ある文明の正統な後継者 | 血縁関係はなく、廃墟テオティワカンを掘って遺物を持ち出し、権威付けに利用した |
| 歴史書の扱い | 神々の子孫という由緒正しい記録が代々伝わってきた | 1427年前後、旧来の絵文書が焼却され、新しい公式史観が作られたと伝わる(ただし一次史料に直接の記載はなく研究者の推論という留保つき) |
| 生贄の対象 | 主に戦争で捕らえた敵の戦士 | テンプロ・マヨールの発掘で、女性や子どもの頭蓋骨も相当数確認され、これまでの理解を覆しつつある |
ここから、この表の一つひとつを、実際の史料や発掘結果に沿って掘り下げていく。
そもそも、メシカは「後から来た」よそ者だった(1250年頃)
神話ではこう語られる――神ウィツィロポチトリに導かれた民が、約175年の放浪の末に、予言どおりの土地にたどり着いた。
しかし実際は――まず押さえておきたいのは、メシカがメキシコ盆地に現れたタイミングだ。彼らが盆地に入ってきたのは、だいたい西暦1250年前後と見られている。北方から南下してきたナワ系の民族集団のひとつで、伝承では出発地を「アストラン」と呼んでいる。この「アストラン」がどこにあったのか、実は今も特定されていない。研究者の間では、バハ・カリフォルニア方面ではないかという推測もあるが、確証はない。
問題は、彼らが盆地に着いた1250年頃には、もう遅かったということだ。盆地の中で条件のいい土地は、先に来ていた都市国家群にとっくに押さえられていた。メシカは新参者として、力ずくで割り込んでいくしかなかった。1250年代から1300年前後にかけて、しばらくの間はクルワカンという有力な都市国家に雇われる傭兵として働いていた時期もある。ところがその関係もうまくいかず、最終的には追放されてしまう。
行き場を失った彼らが流れ着いたのが、テスココ湖に浮かぶ、誰も欲しがらなかった沼地の島だった。しかも、その島にはメシカが来る以前から、既に他の集落があったことも分かっている。神話が語る「誰もいない約束の地」ではなかったわけだ。

つまり、神話が語る「約束の地」の正体は、他に選択肢がなかったから仕方なく住み着いた土地、というのが実態に近い。国立人類学歴史研究所(INAH)の考古学者エドゥアルド・マトス・モクテスマは、この神話について「象徴的な語り直しであって、文字どおりの神のお告げの記録ではない」という趣旨のことを述べている。移住という現実の出来事があり、それを神話という形に整えて語り継いだ、という見立てだ。
神話が「完成した」のは、建国のときではなかった(1325年→1428年)
神話ではこう語られる――建国の1325年、その瞬間に「神に選ばれた民」の物語は、すでに完成していた。
しかし実際は――ここがこの話のいちばん面白いところだと思う。「ワシとサボテンとヘビ」の物語が、メシカの公式な建国神話として整えられたのは、実は1325年の建国当時ではないらしい。歴史学者たちが注目しているのは、1428年という年だ。
この年、メシカは長年従属していたテパネカ族の都市アスカポツァルコを打ち破った。この勝利をきっかけに、テノチティトラン・テスココ・トラコパンの三都市が同盟を結ぶ。いわゆる「アステカ三国同盟」の誕生である。ここから、メシカは一気に地域の支配者へとのし上がっていく。
神話が本格的に語られ始めたのは、この勝利の後だったというのが、今の歴史学の見方だ。順番として、まず勝った。そのあとで、「自分たちは最初から神に選ばれていた」という物語が整備された。約束の地の伝説は、成功の理由を説明するために、後から用意された可能性が高い。
廃墟を掘って「祖先の遺産」を演出する(建国から1世紀ほど後)
神話ではこう語られる――メシカは、由緒あるトルテカ帝国の血を引く、正統な後継者である。
しかし実際は――メシカは自分たちの権威を補強するために、当時すでに廃墟だった古代都市テオティワカン(紀元後450年頃に最盛期を迎え、550年頃には主要な建造物が焼かれて衰退した。メシカが盆地に来る700年近く前の話だ)や、伝説的なトルテカ帝国と自分たちを結びつけようとした。それでもメシカは、まるで自分たちがその正統な後継者であるかのように振る舞った。
その執着ぶりを示す具体的な痕跡もある。メシカは実際にテオティワカンの遺跡にトンネルを掘り、そこから出てきた翡翠の仮面などの遺物を持ち帰って、自分たちの神殿の奉納品として埋めていたことが分かっている。祖先でもない古代文明の遺物を、まるで自分たちの家系の宝物であるかのように扱っていたわけだ。歴史というものは、時に物理的に「掘り出して」作られる。
王と宰相による、旧史書の焼却(1427年)
神話ではこう語られる――神々の子孫という、由緒正しい記録が代々伝わってきた。
しかし実際は――神話の書き換えは、もっと直接的な形でも進んだとされている。1427年、イツコアトルという人物がテノチティトランの王(トラトアニ)に即位する。彼を支えた宰相(シワコアトル)が、トラカエレルという人物だ。伝わっている話では、この二人の主導のもと、それまでメシカに伝わっていた古い記録や絵文書の多くが、意図的に焼却されたという。
理由として語られているのは、「民衆全員が(古い)絵文書の内容を知っているのは望ましくない」という趣旨の言葉だ。焼かれた後には、新しい公式の歴史が用意された。メシカは神々の子孫であり、支配する運命を最初から与えられていた民である、という筋書きだ。この過程で、戦争の神ウィツィロポチトリの地位も、より中心的なものへと引き上げられたとされる。

ただし、ここは慎重に書いておく必要がある。この「焚書」の逸話は広く語られているものの、当時の一次史料に直接、明確な記録として残っているわけではない。この説を後押ししているのは、20世紀を代表するナワトル語研究者ミゲル・レオン=ポルティーヤらの推論だ。トラカエレルという人物自体、後の年代記作者たちによって、実像以上に「メシカ帝国を陰で設計した黒幕」として描かれすぎている可能性を指摘する研究者もいる(歴史学者スーザン・シュローダーの研究など)。
つまり、「王と宰相が本当に焚書を命じたという一次証拠」と、「その後のメシカの歴史記述が、都合よく自分たち中心に書き換わっているという結果」は、分けて考える必要がある。後者は史料を比較すればかなりはっきり見えてくる。前者については、「そう伝わっている」という留保つきで扱うのが正直なところだろう。
この手口は、ここだけの話じゃない
イツコアトルとトラカエレルがやったとされること――都合の悪い記録を焼き、新しい歴史を都合よく書き直す――は、実はメシカの専売特許ではない。権力者が代替わりや体制の節目に、過去を作り替えるのは、洋の東西を問わない、かなり普遍的なパターンだ。
中国では紀元前213〜212年、秦の始皇帝と丞相の李斯が、統治にとって都合の悪い『詩経』などの古典や、秦を正統としない歴史書を焼かせたと伝わっている。「焚書坑儒」と呼ばれる出来事だ。理由として李斯が挙げたのは、人々が古典や歴史を読んで昔と今を比べ、今の体制に不満を持つようになるのを防ぐため、というものだった。医学・占い・農業関係の実用書は対象外とされ、宮廷の書庫には写しが残されたとも言われている。
そして翌年には、体制批判をしたとされる学者460人あまりが生き埋めにされた、という話まで伝わっている。ただし、これも慎重な扱いが必要だ。この「生き埋め」説の主な出典は、秦を滅ぼした次の王朝・漢の時代に書かれた歴史書で、当時使われた漢字は元々「殺す」程度の意味しかなく、後の時代になって「生きたまま埋める」という意味に変化した可能性が指摘されている。しかもこの記述より前の時代の文献には、この処刑についての言及が一切ない。次の王朝には、前の王朝を悪く描く動機が十分にあった、というわけだ。イツコアトルとトラカエレルの焚書の話と、驚くほど似た構造の「話半分で聞くべき逸話」だと言える。
もうひとつ、今度はローマ帝国の例を挙げておく。こちらは焼くのではなく、削り、彫り直す方式だ。「記録抹殺刑(ダムナティオ・メモリアエ)」と呼ばれる慣習で、失脚したり暗殺されたりした皇帝の名前や肖像を、碑文・彫像・貨幣から物理的に消し去るというものだった。西暦212年、皇帝カラカラは弟ゲタを殺害した後、帝国中のゲタの彫像を倒させ、貨幣に刻まれたゲタの名を削らせた。セプティミウス・セウェルスの凱旋門に残る碑文には、今も不自然に削り取られた跡が残っている。皇帝ドミティアヌスの場合は、彫像をわざわざ壊すのではなく、顔だけを次の皇帝ネルウァの顔に彫り直して使い回す、という合理的(かつ露骨)な処理まで行われたという。
書いて残すにせよ、削って消すにせよ、狙いは同じだ。「今の権力者にとって都合のいい過去」だけを、公式の記録として残す。テノチティトランの建国神話がやったことは、決して特殊な出来事ではなく、権力が歴史を扱うときの、ごくありふれたやり口の一つだったということになる。
前編のまとめ、そして中編へ
ここまでを整理しておく。
「神に導かれ、約束の地にたどり着いた」という建国神話の裏には、行き場を失った後発の移民集団が、沼地の島に住み着くしかなかったという現実があった。その神話が本格的に語られ始めたのは、彼らが実際に勝者になった後だった。正当化のためなら、遺跡を掘り返して他人の遺産を自分の祖先の遺産として扱うことも、旧来の記録を焼いて新しい歴史を書くことも、辞さなかったとされている。そして、その手口自体は、秦にもローマにもあった、ありふれたものだった。
では、その帝国は実際に何をしていたのか。
メシカと言えば、避けて通れないのが大規模な人身供犠だ。ただしこれも、「野蛮だった」の一言で片付けると、大事なところを見落とすことになる。彼らには彼らなりの、かなり筋の通った理屈があった。そして近年の発掘は、その実態について、征服者が書き残した記録とすら食い違う事実を掘り出しつつある。
中編では、そこを掘り下げる。
出典・参考情報源
- テノチティトラン建国神話(ウィツィロポチトリのお告げ、ワシ・サボテン・ヘビの予言、1325年3月13日「二軒」の建国日、『クアウティトラン年代記』『アウビン絵文書』による裏付け)、考古学者エドゥアルド・マトス・モクテスマの「象徴的な語り直し」という見解: The founding myth of 700-year-old Tenochtitlan — The Jerusalem Post
- メシカが北方(バハ・カリフォルニア方面の可能性、詳細は不明)からの後発の移民集団だったこと、既存の勢力の間を武力で割り込んでいったこと、テオティワカンやトルテカ帝国との系譜を作り上げるためにテオティワカン遺跡を掘って翡翠の仮面などを持ち出し奉納品として使ったこと: Aztecs: where eagles dare — The Past
- メシカが1250年頃に盆地に入ったこと、クルワカンの傭兵として使われた後に追放され沼地の島に定住したこと、移住の物語が政治的正当性の獲得のために組み立てられたものであること: Aztec Empire — Wikipedia
- 1427年のイツコアトル即位、宰相トラカエレルによる旧絵文書焼却と歴史書き換えの逸話、新しい公式史観の内容(メシカを神々の子孫・支配する運命の民とする筋書き)、ウィツィロポチトリの地位引き上げ: Itzcoatl Burned Every Book. Then Rewrote History. — History Uncovered
- トラカエレルの焚書の逸話について、一次史料に直接の記載がなくミゲル・レオン=ポルティーヤらの推論に基づく側面が強いという学術的な留保、トラカエレル像そのものが後世に誇張された可能性(スーザン・シュローダー『Tlacaelel Remembered』の議論): Tlacaelel — Wikipedia
- 1428年のアスカポツァルコ打倒とアステカ三国同盟の成立、メシカの建国神話が実際にはこの軍事的勝利の後に本格的に整備されたとする歴史学者の見方、島にはメシカ以前から先住の集落があったこと: Why a centuries-old Mexica myth became Mexico’s enduring symbol — Crux
- テオティワカンが紀元後450年頃に最盛期を迎え、550年頃に主要建造物が焼かれて衰退し、7〜8世紀の間に最終的に放棄されたとする年代観: Teotihuacan — World History (Lumen Learning)
- 秦の始皇帝・丞相李斯による紀元前213〜212年の焚書坑儒(対象の書物と対象外の実用書、李斯の動機、学者460人あまりが生き埋めにされたとされる逸話)、および「生き埋め」の記述が漢代の史料に基づくもので当時の漢字の意味変化や記述の欠如から後世の誇張・創作である可能性が指摘されていること: Burning of books and burying of scholars — Wikipedia
- ローマ帝国の「記録抹殺刑(ダムナティオ・メモリアエ)」の慣習、西暦212年のカラカラによる弟ゲタの彫像破壊・貨幣からの名前削除とセプティミウス・セウェルスの凱旋門に残る削り跡、皇帝ドミティアヌスの彫像が皇帝ネルウァの顔に彫り直された事例: Damnatio Memoriae: Destruction and Disgrace in Antiquity — TheCollector

