前編では、「日本には大洪水伝説がない」という定説が実は半分ウソで、洪水の記憶は龍(ヤマタノオロチ)や開拓神話、そして沖縄・先島諸島の本格的な洪水型神話として、ちゃんと残っていることを見てきました。
でも、まだ大きな謎が残っています。なぜ日本の洪水は、ノアの方舟のように「世界がリセットされる話」にならなかったのか。そして、そもそも「日本は大陸と陸続きだった」という話は本当なのか。
後編は、地質学の目線から、この謎に切り込んでいきます。
ノアの洪水は、本当に「世界」を沈めたのか
まず比較対象として、メソポタミアの洪水伝説を地質学的に見てみます。
20世紀の考古学者レナード・ウーリーは、イラクのウル遺跡を発掘した際、分厚い水成堆積層(水によって運ばれた土砂の層)を発見し、これこそノアの洪水の物証だと発表して世界を驚かせました。ところが、その後の調査でこの説には無理があることが分かってきます。ウルから直線距離でわずか十数キロしか離れていないエリドゥ遺跡では、同じ時期の洪水の痕跡がまったく見つからなかったのです。さらにキシュ遺跡やシュルパック遺跡でも洪水層が見つかっていますが、それぞれ堆積した年代も厚みもバラバラで、同じ一つの巨大洪水を指し示してはいません。
つまり考古学的な結論は、「メソポタミアで大規模な洪水がなかった」わけではなく、「チグリス・ユーフラテス川流域で繰り返し起きていたローカルな氾濫の記憶が、後の時代に一つの物語へと集約され、『世界を沈めた洪水』というスケールにまで拡大された」というものです。低平な平野を、氾濫のたびに流路を変えながら流れる大河。そこに暮らす人々にとって、川があふれることは日常の一部であり、同時に繰り返し語り継ぐべき恐怖でもあった。それが積み重なって、「世界の終わり」というスケールの神話にまで育っていった、というわけです。

日本の川は、「世界を沈める」には向いていなかった
翻って日本列島です。日本の川は、メソポタミアの大河とは地形的な性質がまるで違います。国土が急峻な山地に囲まれ、川の流路は短く、勾配が急。水はメソポタミアの大河のようにゆっくり平野全体に広がるのではなく、局所的に、しかし急激に暴れます。前編で見た斐伊川(ヤマタノオロチ)の氾濫も、まさにこのタイプの「暴れ川」でした。
被害は深刻でも、「世界全体が水没する」というスケール感には結びつきにくい。だからこそ日本の洪水神話は、「世界の滅亡」ではなく、「暴れる川(=大蛇)を治める話」「水浸しの土地を切り拓く話」という、もっと手触りのあるスケールに落ち着いたのではないか――地形の違いが神話の違いを生んだ、という見立てです。
「日本は大陸と陸続きだった」は、半分正解で半分不正解
ここでもう一つ、よく語られる「日本は昔、大陸と陸続きだった」という話を検証しておきます。
最終氷期の最盛期(約2万年前)、地球全体で氷床が広がったことで海水準は現在より120〜135メートルほど低下していました。この状態で日本周辺の海峡を見ると、答えは海峡ごとにはっきり分かれます。
北海道とサハリン(樺太)を隔てる宗谷海峡は、最深部でも60〜70メートルほどしかありません。つまり海面が120メートル以上下がれば、余裕で陸地になります。実際、この時期には間宮海峡も含めて樺太・北海道はユーラシア大陸と地続きになっていたことが分かっています。北方からナウマンゾウやマンモスが渡ってきたのも、このルートです。
一方、本州と北海道を隔てる津軽海峡は、最も浅い場所でも水深140メートル。海面が135メートル下がっても、水没を免れる深さです。だから津軽海峡は最終氷期でも陸続きにならず、海峡として残り続けました。この「陸続きにならなかった」という事実こそが、本州側と北海道側で生物相がはっきり分かれる境界線・ブラキストン線を生んだ理由でもあります。対馬海峡も同様に、海面低下だけでは完全な陸橋にはならなかったとする見方が有力です。
つまり正確に言うと、「日本列島は、北(サハリン経由)では大陸と陸続きになったが、本州を含む大部分は、氷期でも海峡によって隔てられ続けていた」ということになります。「陸続きだった」も「陸続きではなかった」も、場所と時代を限定しない限り、どちらも半分しか正しくない――というのが実際のところです。

縄文海進――「国稚く、浮ける脂のごとく」の記憶?
もう一つ、日本列島で実際に起きた大規模な水位変動が「縄文海進」です。
最終氷期が終わって気候が温暖化すると、世界的に海面が上昇していきます。日本では約6500〜6000年前にこの海面上昇がピークを迎え、現在より気温が1〜2度ほど高かったと考えられています。この時期、関東平野では海水が河川をさかのぼり、内陸深くまで広大な内海が広がっていました。今の利根川・渡良瀬川流域は「奥東京湾」と呼ばれる入り江になり、大宮台地は半島のように海に突き出していたと考えられています。現在の内陸の平野が、当時は文字通り海の底だったわけです。
これは「一夜にして世界が沈んだ」という劇的な事件ではなく、数千年というスケールでゆっくり進んだ変化です。だから記録や記憶として「事件」の形では残りにくい。けれど、これほど長期にわたって「土地が水に浸かり続けた」という体験が、何らかの形で神話の言葉に影響を与えていたとしても、不思議ではありません。
ここで思い出したいのが、前編で紹介した『古事記』冒頭の一節です。
「国稚く、浮ける脂のごとくして、クラゲなす漂へる」
まだ固まっていない大地が、水面にふわふわと漂っている――これを、縄文海進によって長く水没していた土地の記憶が、時代を超えて神話的なイメージへと昇華したもの、と読むことはできないでしょうか。
ただし、これはあくまで一つの仮説であり、確立した学説ではありません。縄文海進のピーク(約6000年前)と、記紀の編纂(8世紀)の間には5000年以上の隔たりがあり、文字を持たない社会でその記憶が口承だけでそこまで長く保たれるのかは、慎重に見る必要があります。とはいえ、次に紹介する海外の実例を知ると、「あり得ない話」と切り捨てることもできなくなってきます。

1万年前の記憶を語り継いだ、地球の反対側の人々
オーストラリアの先住民アボリジニの口承伝承には、驚くべき事例が報告されています。
言語学者ニコラス・リードと地理学者パトリック・ナンによる研究(Nunn & Reid, “Aboriginal Memories of Inundation of the Australian Coast Dating from More than 7000 Years Ago,” Australian Geographer 47巻1号, 2016年)は、オーストラリア各地に伝わる18の伝承を分析しました。その結果、これらの伝承が描く「かつて陸地だった場所が海に沈んだ」という地理的な変化は、氷期末の海面上昇(約7000年〜1万2600年前)の実際の記録と、驚くほど正確に一致していたのです。
たとえば、グレートバリアリーフ地域のヤディンジ民族に伝わる「フィッツロイ島はかつて本土の一部だった」という伝承は、約1万3000年前(氷期末で海面がまだ低かった時代)に実際にその通りだった地形と一致します。南オーストラリアのスペンサー湾では、ナランガ民族の伝承が、現在は水深50メートルの海底にある陸地の水没を伝えているとみられています。ウェレスリー諸島には、女性の姿をした精霊が湾を作ったという神話が伝わっており、これも海面上昇による島嶼化を反映していると考えられています。
つまり、口承だけで7000年から1万年以上前の地理的な出来事を、驚くほど正確な形で語り継いだ実例が、実際に学術研究として報告されているのです。これは、「日本神話の冒頭表現が、数千年前の縄文海進の記憶を反映している可能性がある」という仮説を、頭ごなしに否定できない根拠になります。もちろん、オーストラリアの事例がそのまま日本に当てはまる証拠にはなりませんが、「口承伝承は数千年単位の地理的記憶を保持しうる」という前例が存在すること自体は、押さえておく価値があります。

与那国島の海底地形――遺跡か、自然の造形か
「日本と大陸がつながっていた」というロマンと結びつけて語られがちなのが、与那国島沖の海底地形です。階段状の岩や、直線的な溝を持つ巨大な構造物が海底に沈んでおり、「古代遺跡ではないか」という説が国内外で話題になってきました。
この地形が海面下に没したのは、海水準が現在とほぼ同じ高さに達した約6000年前以降と考えられています。人工遺跡説は、この地形の幾何学的な直線や角に着目していますが、地質学的な調査からは異なる見方も示されています。波の侵食によって岬状の地形が削られ、水深10〜20メートルほどの平坦な「海食台」が作られるのは、この海域ではよく見られる自然現象です。実際、周辺の同年代の岩石の侵食速度から計算した侵食量と、与那国島の海食台の幅は、よく一致することが指摘されています。硬い部分と柔らかい部分が入り混じった砂岩は、波の力で直線的・階段状に割れやすい性質を持っており、これが「人工的に見える」直線や段差を自然に作り出す、というわけです。
現時点では、地質学的な証拠は「自然地形」説を支持する方向に傾いています。ロマンに水を差すようですが、ここは正直に書いておきたいところです。ただし、与那国島周辺の海がかつて陸地だった(あるいは現在より海面が低かった)こと自体は、地質学的にも確かな事実です。「古代文明が眠っている」かどうかは分からなくても、「かつてここは海ではなかった」という記憶の断片が、島の伝承のどこかに紛れ込んでいる可能性は、まだ十分に残されています。

そして1771年、伝承は現実になった
先島諸島の物語は、神話の時代だけで終わりません。
石垣島には、人魚が津波を予言したという伝説が伝わっています。人間に捕らえられた人魚が「もし逃がしてくれるなら、いつ津波が来るか教えよう」と告げ、放たれた人魚は本当に津波の到来を予言した、という話です。そして実際に、1771年(明和8年)、八重山地方を最大波高85メートルとも言われる巨大津波が襲いました。「明和の大津波」です。この津波が運んだ巨大な津波石は、今も石垣島の各所に残っています。
伝説と記録された災害が、地続きになっている――これは、日本の洪水にまつわる物語が、単なる空想ではなく、実際にこの列島で起き続けてきた自然現象と、常に隣り合わせだったことを示しています。

逃げたノアと、戦ったスサノオ
ここまでの話を、まとめてみます。
メソポタミアの洪水は、氾濫を繰り返す大河のほとりで、「世界の終わり」というスケールにまで拡大された物語でした。神は世界を滅ぼし、選ばれた一人だけが箱舟に乗って、来るべき破滅から静かに逃れます。ノアは、そうやって難を避けた人間です。
日本列島では、地形そのものが「世界を沈める」ような洪水を許しませんでした。その代わりに残ったのは、暴れる川を治水の力で「治める」物語(ヤマタノオロチとスサノオ)、水浸しの土地を切り拓く物語(亀岡・保津川)、そして南の島々に残る、世界標準そのままの洪水型兄妹始祖神話(先島諸島)でした。スサノオは、逃げませんでした。オロチという名の川と、正面から戦ったのです。
「日本には洪水伝説がない」のではありません。日本列島という土地の形が、「逃げる物語」ではなく「戦う物語」「切り拓く物語」を選ばせた、というのが本当のところなのだと思います。
逃げたノアと、戦ったスサノオ。同じ「水」という試練を前にして、まったく違う神話を生んだ二つの土地の話でした。
▼動画版はこちら
本編の内容を動画でも解説しています。
【日本にも洪水伝説はあった】深ぼり 洪水伝説番外編 逃げたノアと戦ったスサノオ
https://www.youtube.com/watch?v=wdgOIX3RyEc
出典・参考情報源
- メソポタミアの洪水層(ウル・キシュ・シュルパック)の考古学的評価: The Flood: Mesopotamian Archaeological Evidence – National Center for Science Education
- 宗谷海峡・津軽海峡の水深と氷期の陸橋: 宗谷海峡 – Wikipedia、津軽海峡 – Wikipedia
- ブラキストン線: 微妙で絶妙な…ブラキストンライン! – 株式会社エコリス テクニカルノート
- 縄文海進: 縄文海進 – Wikipedia
- Nunn, P.D. & Reid, N.J. (2016) “Aboriginal Memories of Inundation of the Australian Coast Dating from More than 7000 Years Ago,” Australian Geographer 47(1), 11-47. DOI: 10.1080/00049182.2015.1077539 Taylor & Francis Online
- 与那国島海底地形の人工遺跡説・自然地形説: Yonaguni Monument – Wikipedia
- 1771年・明和の大津波: 明和の大津波 ~巨大な岩を動かす津波の力! – 気象庁石垣地方気象台、八重山地震 – Wikipedia

