科学で読み解くライフハック(1) ドアをくぐった瞬間、なぜ人は用事を忘れるのか

ライフハック

リビングに入った瞬間、何をしに来たか分からなくなる

キッチンに何かを取りに行ったはずなのに、部屋に入った瞬間、目的が頭からすっぽり抜け落ちている。

仕方なく元の場所に戻ると、急に思い出す——。

多くの人が経験するこの現象は、単なる「うっかり」や「歳のせい」ではない。

名付け親は、記憶研究の専門家

この現象を最初に実験で示したのは、米ノートルダム大学の心理学者ガブリエル・ラドヴァンスキー(Gabriel Radvansky)教授のチームだ。2011年、学術誌「Quarterly Journal of Experimental Psychology」に発表した研究を皮切りに、複数の追試を重ねてきた。

実験の内容はシンプルだった。

被験者に、いくつかの物体を持って移動しながら記憶してもらう。ある条件では同じ部屋の中を移動し、別の条件ではドアを一つくぐって隣の部屋に移動する。移動距離はどちらも同じに揃えてある。

結果、ドアをくぐったグループの方が、直前に記憶した内容を思い出せない割合が明らかに高かった。この結果は、現実の部屋を使った実験だけでなく、コンピューター上の仮想空間を歩かせる実験でも再現され、2016年の追加研究(Psychonomic Bulletin & Review、Quarterly Journal of Experimental Psychology掲載)でも同様の結果が確認されている。

脳は「区切り」ごとに記憶をリセットする

ラドヴァンスキーらは、これを「イベントモデル(event model)」という考え方で説明する。人間の脳は、経験を一続きの流れとしてではなく、「今いる場所」「今の状況」を単位とした一つひとつの”塊”として処理している。

そして新しい部屋に入る、つまり環境が切り替わる瞬間を、脳は一つの区切り(イベント境界)とみなす。

区切りを迎えると、脳はそれまでの状況に関する情報を「もう使わないもの」として棚卸しし、新しい状況の情報に処理能力を割り当て直す。前の部屋で考えていたことは、この棚卸しのタイミングで一緒に片付けられてしまう——というのが「ドア効果」の正体だ。これは記憶力が悪いから起きるのではなく、限られた脳のリソースを効率よく使うための、いわば正常なメンテナンス機能なのである。

では、忘れないためにどうすればいいのか

研究者や科学メディアがこの現象をもとに紹介している対策は、次のようなものだ。

  • 移動前に目的を声に出す:「寝室にメガネを取りに行く」と一言つぶやいてから移動するだけで、記憶の符号化(頭への刻み込み)が強まるとされる
  • 一度に覚えることを減らす:複数の用事を同時に抱えたままドアをくぐると、境界を越えるタイミングで一気に取りこぼしやすい。移動前に一つずつ片付けるか、メモに逃がしておく
  • 忘れたら、元の部屋に戻る:これは多くの人が経験的にやっていることだが、実は理にかなっている。思い出したい記憶が結びついていた「状況」に体ごと戻ることで、その場に紐づいた記憶が再び呼び起こされやすくなる

特別な道具はいらない。

——これだけで、うっかり忘れの何割かは防げるというわけだ。

次回予告

日常に潜む”うっかり”の正体を追いかけるシリーズ第2回は、少し毛色を変えて「ジンクス」に挑む。「靴紐が緩むと悪いことが起きる」——根拠のなさそうなこの言い伝えを追いかけていくと、なぜか米カリフォルニア大学バークレー校の本格的な物理学研究に行き着く。ジンクスの奥に隠れていた、意外な科学の話。


出典・参考情報源

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