夏になると庭先やベランダにハチが飛んでくる。多くの人はとっさに身構えるはずだ。刺されると痛いし、時には命に関わることもある。だから遠ざけたくなる気持ちは、まったく正当なものだと思う。
でも、もしそのハチの脳が、最先端のAI研究者たちを本気で驚かせるほどの「計算能力」と「省エネ性能」を持っているとしたらどうだろう。ちょっとだけ、見る目が変わってこないだろうか。
「昆虫なんてただの本能の塊でしょう」と思うかもしれない。だが近年の実験心理学・神経科学の分野では、ハチを使った地道な実験が積み重ねられてきた。その結果わかってきたのは、ハチの脳が「小さいのに驚くほど賢い」計算装置だという事実だ。今回は、色の識別から顔の記憶、足し算・引き算、そしてゼロの理解まで、一つずつ順を追って見ていきたい。
人間のニューロン860億、ハチはたったの100万
まず数字から見ていこう。人間の脳には、およそ860億個のニューロン(神経細胞)がある。これはブラジルの神経科学者、スザナ・エルクラーノ=ウーゼルらの研究によって示された数字だ。以前は「1000億個」という説がよく紹介されていたが、実際に脳を溶かして細胞数を数える手法で調べ直した結果、860億個という、より正確な数字が定着した。
| 生物 | 脳の神経細胞(ニューロン)の数 |
| 人間 | 約860億個 |
| ゾウ | 約2570億個 |
| 犬 | 約5億個 |
| 猫 | 約2億5000万個 |
| ミツバチ | 約100万個 (胡麻粒サイズ) |
※犬・猫は大脳皮質のみのニューロン数、人間・ゾウは脳全体(小脳含む)の数
一方、ミツバチの脳はどうか。体積はたったの1立方ミリメートル程度。ゴマ粒よりも小さい。そこに詰まっているニューロンの数は、およそ96万個。多く見積もっても100万個ほどしかない。
つまり人間とハチのニューロン数の差は、実に9万倍近い。ケシ粒ほどの脳しか持たないハチが、人間の足元にも及ばない存在に見えても不思議はない。
ところが、この小さな脳でハチができることを一つずつ調べていくと、驚くことばかりだ。人間の脳をスーパーコンピューターだとすれば、ハチの脳はせいぜい電卓サイズ。それなのに、電卓には到底できない芸当をいくつもこなしている。
色を見分け、人の顔まで覚えている

ハチが花の色を見分けて蜜のありかを探すのは、よく知られている話だろう。でも研究が示したのはその先だ。
2005年、モナシュ大学とベルリン自由大学の研究チームが発表した実験がある。ハチに複数の人間の顔写真を見せ、砂糖水がもらえる写真とそうでない写真を覚えさせた。
すると、ハチはその後、写真の角度や大きさが変わっても、正しい顔を選び出せるようになった。
人間の顔は、ハチの視力からすればぼんやりとした模様の集まりにしか見えないはずだ。それでもハチは、目・鼻・口といったパーツの「配置パターン」を手がかりに、個体を見分けていた。
これは人間が顔を認識するときの仕組みと、驚くほど似た戦略だという。
視力も脳の容量も人間とは比べものにならないのに、「特徴の組み合わせで個体を判定する」という発想にたどり着いていた。
進化の系統が大きく離れた昆虫と人間が、似たような答えにたどり着いているという点も興味深いところだ。
「1+1」も「2-1」も解ける計算力
2019年、RMIT大学のスカーレット・ハワードらのチームは、さらに踏み込んだ実験を『サイエンス・アドバンシズ』誌で発表した。
Y字型の迷路にハチを誘導し、入り口で1〜5個の図形を見せる。図形が青色なら「1を足した数」、黄色なら「1を引いた数」が正解になる仕組みだ。正解の部屋に進むと甘い砂糖水、不正解だと苦い液体が待っている。
ハチは4〜7時間、100回を超える試行錯誤の末に、このルールを学習した。
しかも一度覚えたルールを長期記憶として保持しながら、目の前の数字を短期記憶で処理して答えを出す。足し算・引き算という「記号操作」を、色という象徴を使ってやってのけたわけだ。
これは小学校で習う「1+1=2」の計算とは、少し性質が違う。「青は足す」「黄は引く」という抽象的なルールをいったん記憶にしまい込み、そのルールを目の前の数字に適用する。
ルールと事実を切り分けて処理する、という点では、なかなか高度な情報処理と言っていいだろう。
おまけに偶数・奇数も見分ける
これだけでも十分驚きなのだが、2022年には別の研究チームが、ハチが偶数と奇数を見分けられることも報告している。1〜10の図形を使い、片方のグループには「偶数なら甘い、奇数なら苦い」、もう片方には逆の組み合わせを学習させたところ、どちらのグループも学習に成功した。
しかも訓練で使っていない11〜12個という新しい数字でも、約7割の正答率できちんと判定できたという。
数の多さだけでなく、数の「性質」まで扱えている。100万個のニューロンにしては、ずいぶん欲張りな能力だ。
「ゼロ」は「1」より小さい、をわかっている
そして極めつきが、2018年に『サイエンス』誌に掲載された研究だ。
同じくハワードらのチームが、ハチに「要素の数が少ない方の画像を選ぶと報酬がもらえる」という訓練をした。3個と4個、2個と3個、というように、常に「より少ない方」を選ばせ続ける。
その後、初めて「何も描かれていない画像」と「1個以上描かれた画像」を見せたところ、ハチは何も描かれていない方、つまり「ゼロ」を選ぶ傾向を示した。一度も空の画像で訓練されていないのに、である。
これは、ハチが単に「少ない方を選ぶ」というルールを機械的に覚えただけでなく、ゼロを数列の中でいちばん小さい値として位置づけていたことを意味する。
ゼロという概念は、人類の歴史を振り返っても一筋縄ではいかなかった。古代バビロニアやマヤ文明では位取りの記号として早くから使われていたが、それを「何もない」という数そのものとして完全に理論化したのは、7世紀のインドの数学者ブラーマグプタだとされる。
人間ですら数千年かけてたどり着いた発想に近いものを、100万個のニューロンしか持たない昆虫が、実験室での数時間の訓練で獲得してしまう。この対比だけでも、十分に「不思議な話」の資格がある。
AIより桁違いに省エネ。昆虫の脳が拓くロボットの未来
ここまでの話だけでも十分不思議だが、AI研究の世界ではさらに実用的な注目のされ方をしている。
人間の脳は、休みなく働いていても消費電力はおよそ20ワット。電球ひとつ分ほどのエネルギーで、記憶も計算も感情もまかなっている計算になる。
これに対して、大規模AIの学習にかかる電力は桁が違う。
たとえばGPT-3クラスの言語モデルの学習には、推定で1,287メガワット時、人間の脳が数千年かけて消費するエネルギーに匹敵する電力が使われたとされる。
あの賢そうな受け答えの裏側では、とんでもない量の電気が動いているわけだ。
そしてハチの脳は、その人間の脳よりもさらに桁違いに省エネだ。
EUの研究プロジェクト「InsectNeuroNano」では、ミツバチが体重1グラム未満でありながら、脳を動かすのに使う電力は0.01ワット未満と報告されている。
従来型の電子チップが同等の処理をしようとすると、80グラム以上の重さで7ワット以上を消費するというから、その差は歴然としている。
| 対象 | エネルギーの目安 | 何を表している? | 補足 |
| 人間の脳 | 約20w | 脳が常時使う電力 | 10〜20W程度という推定が一般的。記憶・感覚・運動・思考など、脳の活動全体をこの程度のエネルギーで維持している。 |
| ミツバチ | 0.01w未満 | ナビゲーションなどの高度な処理に必要なエネルギーの目安 | InsectNeuroNanoは、ハチが100分の1ワット未満で周囲を認識し、ナビゲーションを行うことを紹介している。 |
| 従来のナビゲーション用チップ | 7w超え | ハチのナビゲーションに相当する処理を行うチップの比較 | InsectNeuroNanoによると、現在のナビゲーションチップは7W超で、ハチの約80倍の重量。 |
| GPT-3の学習 | 推定1,287MWh | モデルを訓練するために使われた電力量 | これは瞬間的な「電力」ではなく、学習期間全体で消費した電力量。推定値であり、データセンターの条件などによって変わる。 |
※ハチの脳全体が正確に「0.01W」という測定値とは分けて考えた方がよい。
※GPT-3が人間の脳7,350年分(1,287MWh ÷ 0.02kW ≒ 6,435万時間時間 ≒ 7,350年)の計算能力を持つ」という意味ではありません。単純に「消費したエネルギー量を20Wで割ると、それだけの時間になる」という比較です。
この省エネ性能に世界中のAI・ロボット研究者たちが目をつけている。米アルゴンヌ国立研究所では、昆虫の脳の構造を模したコンピューターチップの開発が進む。
目標とする消費電力は1ワット以下。
従来のGPUが100ワット以上を使うのと比べると、100分の1のエネルギーで動かせる計算になる。
しかも実験では、通常のAIが20%のエラー率で精度を落とすのに対し、この昆虫型チップは60%のエラーが混ざっても正常に機能したという。ノイズに強いという点でも、昆虫の脳は優秀な設計らしい。
こうした技術は、災害現場の隙間を飛び回る小型ロボット昆虫や、太陽電池だけで長期間動き続ける宇宙探査機、農地を飛び回る受粉ロボットなど、電源の確保が難しい場所で活躍することが期待されている。
花から花へ飛び回るだけに見えていたハチの脳の仕組みが、そのままロボット工学の設計図として研究されているのだ。
考えてみれば当然かもしれない。ハチは何億年もの進化の過程で、限られた体のエネルギーだけを使って、飛行・ナビゲーション・記憶・学習をすべて同時にこなす必要に迫られてきた。
無駄なエネルギーを使う個体は生き残れない。その結果たどり着いたのが、100万個のニューロンで最大限の性能を引き出す、超高効率な設計だったというわけだ。
AIが力任せに電力を投入して賢さを追い求めているのとは、真逆のアプローチと言える。
まとめ。ちょっとだけ、見る目が変わりませんか
色を見分け、人の顔を覚え、足し算・引き算をこなし、偶数と奇数を区別し、ゼロという抽象的な概念まで理解する。
それも、人間の9万分の1というニューロン数で、しかも人間の脳よりさらに桁違いに小さい電力で、である。
もちろんハチは刺す。夏場に不用意に近づくのは危険だし、それは今後も変わらない事実だ。
それでも、庭先を飛び回るあの小さな体の中に、最先端のAI研究者たちが本気で学ぼうとしている「究極の省エネ計算機」が入っていると知ると、少しだけ見る目が変わってこないだろうか。

出典
- Howard, S. R. et al. (2018) “Numerical ordering of zero in honey bees,” Science, 360(6393), 1124-1126.
- Howard, S. R. et al. (2019) “Numerical cognition in honeybees enables addition and subtraction,” Science Advances, 5(2), eaav0961.
- Dyer, A. G., Neumeyer, C., Chittka, L. (2005) “Honeybee (Apis mellifera) vision can discriminate between and recognise images of human faces,” Journal of Experimental Biology, 208(24), 4709-4714.
- Howard, S. R. et al. (2022) “Numerosity Categorization by Parity in an Insect and Simple Neural Network,” Frontiers in Ecology and Evolution, 10.
- Herculano-Houzel, S. (2009) “The human brain in numbers: a linearly scaled-up primate brain,” Frontiers in Human Neuroscience.
- Menzel, R., Giurfa, M. (2001) “Cognitive architecture of a mini-brain: the honeybee,” Trends in Cognitive Sciences.
- Patterson, D. et al. (2021) “Carbon Emissions and Large Neural Network Training,” arXiv:2104.10350.
- InsectNeuroNano project (EU Horizon)紹介記事: “How bee brains are shaping next-generation computer chips,” Horizon Magazine.
- Argonne National Laboratory: “Argonne explores how ants, bees, and fruit flies can be the next big buzz in artificial intelligence.”

