前回はマオリ、今回は地球を反対側へ半周してマヤの高地へ
前回は南太平洋、アオテアロアに伝わるランギヌイとパパトゥアヌクの天地分離についてでした。子供達に引き裂かれた空の父と大地の母、そして半神マウイの冒険譚でした。

今回向かうのは、そこから地球をぐるっと半周した先、中央アメリカ・グアテマラ高地だ。そこに暮らしていたのがキチェー・マヤ(K’iche’)の人々であり、彼らが伝えてきた創世神話は『ポポル・ヴフ』(Popol Vuh、「民の書」「共同体の書」といった意味)という一冊の書物として今に残っている。
このシリーズでこれまで見てきた創造神話とは、実は一つだけ大きく違う点がある。『ポポル・ヴフ』の神々は、人間を作るのに何度も失敗し、そして作り直している。しかもその失敗の記録を、恥ずかしがらずに堂々と書き残しているのだ。今回はこの「試行錯誤する神々」の物語を追いかけたい。
三百年近く眠っていた書物——『ポポル・ヴフ』が今に伝わった経緯
『ポポル・ヴフ』はもともと、口承で語り継がれてきた物語だった。それがラテン文字でキチェー語のまま書き記されたのは、1554年から1558年頃と考えられている。
スペインによる征服が進み、先住民の信仰や慣習が弾圧されつつあった、まさにその時期のことだ。World History Encyclopediaは、この時代背景を「古くからのマヤの信仰や慣習が、キリスト教徒である征服者たちにもはや許容されなくなりつつあることが、痛いほど明らかになっていた時期」と表現している。
つまりこの書物は、消えかけていた自分たちの物語を、なんとか書き留めて残そうとした人々の記録でもある。
この写本は長らく人知れず伝わっていたが、1701年から1703年頃、グアテマラのチチカステナンゴで教区司祭を務めていたドミニコ会の修道士フランシスコ・ヒメネスが、たまたまこの写本を目にする機会を得た。ヒメネスはキチェー語の原文を書き写し、隣にスペイン語訳を並べて書き加えた。
これが現存する唯一の写本であり、以後のあらゆる翻訳・研究はこのヒメネス版を土台にしている。
その後この写本は複雑な経路をたどる。
19世紀にフランス人聖職者ブラッスール・ド・ブルボーグの手に渡り、1880年代には収集家エドワード・E・エイヤーが購入、1911年にシカゴのニューベリー図書館へ寄贈された。今もこの図書館が、人類が持つ唯一のオリジナル写本を所蔵している。
創造神たちの合議——「言葉」だけで大地と山と森が生まれた
『ポポル・ヴフ』の冒頭、まだ何も存在しない静寂の中に、複数の神格が姿を現す。テペウ(至高の統治者)、グクマッツ(羽毛の蛇。ユカタン半島のマヤの間ではクウクルカンと呼ばれる存在と同一視される)、そして「天の心(フラカン)」と呼ばれる神格群。彼らは互いに語り合い、合議のうえで世界を作り上げていく。
その作り方が興味深い。彼らは手で何かをこねたり、巨人の体を切り刻んだりするのではなく、「そうあれ」という言葉を発するだけで、大地、山々、川、森を出現させる。Christenson訳(FAMSIで公開されている学術訳)によれば、神々は大地と空を測量し、四隅と四辺に杭を打って世界の境界を定めたという。
この「言葉による創造」という型は、実はこのシリーズの第3回で見た聖書の創世記(「光あれ」)や、第2回のエヌマ・エリシュとも共通する部分がある。ただし『ポポル・ヴフ』の場合、世界そのものはこの言葉の力であっさり完成するのに対し、次に語られる「人間作り」の方は、まったくそう簡単にはいかない。
一度目の失敗:動物たち——「祈れない、言葉にならない」
まず神々は、山の動物や森の番人として、鹿や鳥、蛇やジャガーといった生き物たちを作った。だがすぐに大きな問題が発覚する。
動物たちは神々の名を呼ぶことも、祈ることも、暦を数えて守ることもできなかったのだ。Christenson訳では、動物たちはただ「鳴き、さえずり、吠える」だけだったとされ、神々は「お前たちの話し方はうまくいかなかった」と判定する。
結果、動物たちは創造の主役の座から外され、他の生き物に食べられる、あるいは家畜として扱われる存在に位置づけ直された。神々に必要だったのは、ただ生きている存在ではなく、自分たちを覚えていて、敬い、語りかけてくれる存在だったのだ。
二度目の失敗:泥の人間——ドロドロに崩れて溶けていった
次に神々が試したのは、土と泥から人間を作ることだった。ところがこの試みは輪をかけてひどい結果に終わる。Christenson訳の表現を借りれば、この泥人間は「ただ崩れ、ボロボロと落ちていくだけ」で、「ぐしゃぐしゃになり」「崩壊し、溶けていった」。
頭部の形もうまく定まらず、顔は一方向しか向けなかったという。かろうじて言葉を発しはしたが、その言葉には意味がなかった。何より水に浸すとそのまま溶けてしまうという、生き物としてあまりに致命的な弱点を抱えていた。
つくった側の神々自身が「これでは長く保たない」と判断し、この泥の人間はあっさり見限られる。
三度目の失敗:木の人間——心も記憶もない木偶、そして道具たちの反乱
三度目に神々が頼ったのが、占いと創造を司る老夫婦の神、シュピヤコックとシュムカネーだった。二柱の助言のもと、今度は木を彫って人間の形を作る。
この試みは、一見かなりの成功に見えた。木の人間は人間らしい姿を持ち、人間らしく話し、子孫を増やし、あっという間に地上を埋め尽くすほどに広がった。だが決定的な欠陥があった。Christenson訳はこう記す——彼らには「心も、思考力も」なく、「自分たちを形作った者(フレイマー)、型どった者(シェイパー)のことを覚えていなかった」。顔は乾き、体には血も脂肪もなく、こわばって硬いだけの存在だった。神々の目には、これはあくまで「実験、人間になろうとした一つの試み」に過ぎなかった。
そしてこの木の人間には、あまりに手厳しい最期が用意されていた。神々は大洪水を送り込む。さらに、木の人間たちからそれまで粗末に扱われてきた道具や動物たち——挽き臼、鍋、犬、七面鳥——までもが一斉に反乱を起こし、彼らに襲いかかったという。「お前たちは私たちを踏みつけ、こき使ってきた。今度はこちらの番だ」というわけだ。洪水と身の回りの道具の逆襲、その両方から命からがら逃げ延びたわずかな生き残りが、姿を変えて今も森に棲んでいる——それがサルなのだと『ポポル・ヴフ』は語る。サルが人間によく似た姿をしているのは、この木の人間の名残だから、という理屈だ。
予告編:双子の英雄フナフプーとイシュバランケー、死者の国シバルバーを制す

木の人間が滅びたあと、『ポポル・ヴフ』はしばらく人間創造の話から離れ、双子の英雄フナフプーとイシュバランケーをめぐる長い冒険譚に移る。実はこの二人が生まれる前、その父フン・フナフプーともう一人の兄弟は、地下にある死者の国シバルバーの支配者たちに呼び出され、そこで命を落としていた。父の首は木に吊るされ、その木になった果実に触れた一人の乙女が身ごもり、生まれたのがフナフプーとイシュバランケーである。
成長した二人は、父の仇を討つべくシバルバーに乗り込み、数々の試練と罠を知恵と機転で切り抜けていく。最終的には死者の国の支配者たちさえ出し抜き、その力を永久に弱める。戦いを終えた二人は天に上り、太陽と月になったと伝えられる。
このシバルバー編は、それ自体が一大叙事詩と言えるほどのボリュームを持つ物語だ。今回は人間創造の流れを追うことに集中したいので、あくまで「予告編」としてここで留めておく。いずれこのシリーズでも、冥界下りや双子神話を特集する回で、じっくり掘り下げたい題材だ。
四度目、ついに成功:トウモロコシの人間——なぜ「曇った目」を持たされたのか
そしていよいよ、現在の人類につながる四度目の創造だ。神々はパシル(実り)とカヤラー(収穫)という山で、白と黄色のトウモロコシを見つける。シュムカネーがこれを「九回挽き」にして粉にし、水と混ぜ合わせて人間の肉体を作り上げた。Christenson訳では「食べ物が彼らの肉となり、そこに水が加わって力を与えた」と表現されている。
こうして生まれた最初の四人の男の名は、バラム・キツェ、バラム・アカブ、マウクタ、イキ・バラムという。彼らはたちまち、これまでの試作品とはまったく違う存在であることが明らかになる。話すことも、見ることも、考えることもでき、しかもその視力と知性は「完璧」だった。あまりに完璧すぎて、彼らは大地の隅々まで、そして天のすべてを見通せるほどだったという。
ところがここで、神々は思わぬ形で不安を覚える。「これでは、この者たちは私たちと同じになってしまう」。せっかく人間らしい人間ができたのに、今度は「人間ができすぎた」ことが問題になったのだ。そこで神々は最初の四人の目に霧を吹きかけ、視力を意図的に曇らせる。Christenson訳の言葉を借りれば、「彼らの目はただ、天の心によって曇らされた」。以後、人間に見えるのは近くのものだけになり、遠くまで見通す力は失われた。この措置のあと、最初の四人にはそれぞれ妻が与えられ、ここから今日に続く人類が始まったとされる。
文字になる1800年も前から——石碑や土器にすでに描かれていた同じ物語
ここまでの話を読んで「本当にこんな話が伝わっていたのか」と思った人もいるかもしれない。だがこの神話、実は考古学的な”物証”がかなり豊富に残っている。
メキシコ・チアパス州のイサパ遺跡に立つ「石碑25」は、紀元前300年から前50年頃、イサパが最も栄えていた時代に作られたとされる石碑だ。そこには、片腕を失った人物が吹矢を構え、木にとまった巨大な鳥の怪物を見上げている場面が刻まれている。これは『ポポル・ヴフ』後半で語られる、フナフプーがうぬぼれ屋の怪鳥ヴクブ・カキシュ(セブン・マカウ)を吹矢で撃ち、代わりに自分の腕を食いちぎられてしまう場面とほぼ一致するとされる。同じ構図は、のちの古典期(西暦250〜900年頃)の土器にも繰り返し描かれている。『ポポル・ヴフ』が文字として書き記されたのが1550年代だとすると、この石碑はそれより1800年以上も前に作られていたことになる。
もう一つ、ボストン美術館が所蔵する後期古典期(西暦600〜750年頃)、メキシコ・カンペチェ州で作られた円筒形土器も興味深い一例だ。ここにはヒーロー・ツインズが、冥界の主イツァムナーフに向かって、亡き父の骨を返してほしいと頼み込む場面が描かれている。ちなみにこの土器では、双子は「フン・アハウ」「ヤシュ・バフラム」という、キチェー語版の「フナフプー」「イシュバランケー」とは少し違う古典期の呼び名で登場する。バスケットの中身は、双子の父の骸骨と装身具——そしてこの父は、古典期の図像研究では「トウモロコシの神」と同一視される存在だ。
双子の父であるトウモロコシの神が一度死に、骨となって取り戻され、そして物語の終盤では人類そのものがトウモロコシから新しく作られる——これは単なる偶然の一致というより、マヤの人々にとってトウモロコシが「死んでは芽吹く」穀物として、死と再生そのものの象徴だったことの表れなのだろう。1550年代に書き留められた物語の骨格が、その1800年以上前の石碑にすでに刻まれていた。これこそが、この神話が一人の創作ではなく、長い年月をかけて語り継がれてきた”本物”の伝承である何よりの証拠だ。
聖書の「言葉」との共通点、そして決定的な違い
第3回で扱った聖書の創世記も、「光あれ」という言葉一つで世界を作り出す物語だった。『ポポル・ヴフ』の世界創造も、同じく言葉の力によって進む。この点だけを見ると、二つの神話はよく似ている。
だが人間創造の場面になると、両者はまるで違う顔を見せる。聖書の神は(創世記1章に関する限り)一度の宣言で人間を完成させる。一方『ポポル・ヴフ』の神々は、動物、泥、木と三度にわたって失敗を重ね、そのたびに「これは駄目だ」と自ら判定を下し、作り直している。しかも成功した後さえ、「人間ができすぎた」という新たな問題に直面し、慌てて手直しをする。
創造主が失敗を認め、試行錯誤しながら人間を作っていく——このシリーズでここまで見てきた神話の中でも、『ポポル・ヴフ』のこの率直さはかなり異色だ。序章で扱った「巨人の身体から世界が生まれる」型とも、聖書やエヌマ・エリシュの「言葉で一気に作る」型とも違う、いわば”リアルな開発プロセス”を見せてくれる神話だと言える。
神々はなぜ、自分の失敗を隠さなかったのか
ここまで読むと、素朴な疑問が浮かぶかもしれない。なぜ『ポポル・ヴフ』は、神々の”黒歴史”とも言える失敗の数々を、隠さずにわざわざ書き残したのだろうか。
ヒントは、動物・泥・木という三つの失敗が、実はバラバラな理由で退けられたわけではないという点にある。動物が失格したのは「祈れない、名を呼べない」から。泥の人間が失格したのは「言葉に意味がなく、姿を保てない」から。木の人間が失格したのは、話せて増えても「心もなく、造物主を覚えていない、感謝しない」から。三つの失敗は、いずれも同じ一点——「創造主を記憶し、名を呼び、敬うことができるか」——で退けられている。
つまりこの物語は、単に「神々は何度も失敗した、恥ずかしい話だ」という笑い話ではない。むしろ逆で、失敗を一つひとつ積み重ねることで、「本当の人間とは何か」を消去法で定義していく、かなり意図的な語りの構造になっている。トウモロコシの人間がようやく合格したのは、彼らが初めて「考え、話し、見て、感謝する」ことができたからだ。そして完成した直後には早くも「視力が良すぎる」という新たな”欠陥”が見つかり、神々はすぐさま手直しをする。ここまで一貫しているのは、神々にとっての合格ラインが、力や美しさではなく、あくまで「記憶し、敬うことができるかどうか」だったという点だ。失敗の記録は恥の記録ではなく、「人間とは何をもって人間なのか」という問いへの答えを、一段ずつ積み上げていくための必要な手順だったことになる。
もう一つ、書き手側の事情も見逃せない。この物語が文字として書き留められたのは、前述の通り、スペインによる征服が進み、マヤの信仰そのものが弾圧されつつあった1550年代のことだった。都合の悪い部分を削って神々を立派に見せることもできたはずだが、キチェーの書き手たちはそうしなかった。むしろ失敗も含めた物語の全体を、ありのままに書き残すことを選んでいる。消えかけていた自分たちの伝承を、体裁よく整えるのではなく、本当の姿のまま後世に伝えようとした——その誠実さもまた、”なぜ記録したのか”という問いに対する、もう一つの答えだと思う。
現代へのつながり——ノーベル賞作家が書いた『トウモロコシの人間たち』
この「人間はトウモロコシからできている」という神話は、現代のグアテマラでも決して過去の物語として片付けられていない。
グアテマラ出身の作家ミゲル・アンヘル・アストゥリアスは、1967年にノーベル文学賞を受賞したラテンアメリカ文学の巨匠だ。彼の代表作の一つ『トウモロコシの人間たち』(Hombres de maíz、1949年)は、そのタイトル自体が『ポポル・ヴフ』のトウモロコシ人間創造神話に由来する。作中では、トウモロコシを神聖な食べ物として大切に育てる先住民の人々と、それを商品作物としてしか見ない開発者たちとの対立が描かれる。マヤの伝統的な信仰やナワリズム(守護動物へ姿を変える力)といった要素も物語に組み込まれており、資本主義がグアテマラのトウモロコシ栽培にもたらした破壊的な影響を浮かび上がらせる作品になっている。
三百数十年前に一人の修道士が書き写した創造神話が、20世紀にはノーベル賞作家の代表作のタイトルとして生まれ変わり、「自分たちが何者か」を語り続ける物語であり続けている。これもまた、この神話が今なお”生きている”証拠の一つだろう。
マヤの神話について入門編動画
次回予告
次回はメキシコ中央高原、アステカの創世神話へ。「五つの太陽」の時代を巡る壮大なサイクルと、みずから炎に飛び込んで太陽になった神ナナワツィンの自己犠牲の物語を追いかける。
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出典・参考情報源
– 『ポポル・ヴフ』の成立年代(1554〜1558年頃)、時代背景、フランシスコ・ヒメネス神父による発見・書写の経緯(1701〜1703年)、その後のシェルツァー・ブラッスール・ド・ブルボーグらによる出版経緯: [Popol Vuh — World History Encyclopedia](https://www.worldhistory.org/Popol_Vuh/)
– 『ポポル・ヴフ』の成立言語(K’iche’語)、著者、ヒメネス神父によるチチカステナンゴでの発見、ヒーロー・ツインズ(フナフプーとイシュバランケーが太陽と月になった経緯)の概要: [Popol Vuh — Encyclopædia Britannica](https://www.britannica.com/topic/Popol-Vuh)
– テペウ・グクマッツ・フラカン(天の心)らによる言葉のみの世界創造、動物創造とその失敗理由、泥の人間の崩壊・溶解の詳細描写、木の人間の心/記憶の欠如・洪水と道具/動物の反乱による破壊、シュムカネーによるトウモロコシの九回挽き、最初の四人の名前(バラム・キツェ、バラム・アカブ、マウクタ、イキ・バラム)、視力を曇らされた経緯、フン・フナフプーの死とヒーロー・ツインズによるシバルバー征服の概要: [POPOL VUH, translated by Allen J. Christenson — FAMSI](https://www.famsi.org/research/vanstone/2012/PopolVuhBrief.pdf)
– ニューベリー図書館(シカゴ)による写本所蔵の経緯(エドワード・E・エイヤーによる収集、1911年寄贈)、デジタル化の取り組み: [Popol Vuh Research Guide — The Newberry Library](https://www.newberry.org/collection/research-guide/popol-vuh)
– 写本の伝来経路(ブラッスール・ド・ブルボーグ、エイヤーへの売却)の補足確認: [Popol Vuh — Wikipedia](https://en.wikipedia.org/wiki/Popol_Vuh)
– ミゲル・アンヘル・アストゥリアス『Hombres de maíz(トウモロコシの人間たち)』の題名の由来(ポポル・ヴフとの関係)、1967年ノーベル文学賞受賞、聖なる食べ物としてのトウモロコシと商品作物としてのトウモロコシの対立というテーマ: [Men of Maize — Wikipedia](https://en.wikipedia.org/wiki/Men_of_Maize)
– イサパ石碑25の年代(紀元前300〜前50年頃)とヒーロー・ツインズが怪鳥(プリンシパル・バード・デイティ)を吹矢で狙う図像、ポポル・ヴフのヴクブ・カキシュ神話との対応: [Izapa — Wikipedia](https://en.wikipedia.org/wiki/Izapa)、[Vucub Caquix — Wikipedia](https://en.wikipedia.org/wiki/Vucub_Caquix)
– ボストン美術館所蔵の円筒形土器(後期古典期、西暦600〜750年頃、メキシコ・カンペチェ州)に描かれた、ヒーロー・ツインズ(古典期の呼び名「フン・アハウ」「ヤシュ・バフラム」)がイツァムナーフに父(トウモロコシの神)の骨を求める場面: [Cylinder vase (1988.1169) — Museum of Fine Arts, Boston](https://collections.mfa.org/objects/36325)
– 動物・泥・木それぞれの失敗が「創造主を記憶し、名を呼び、敬うことができるか」という一貫した基準で退けられているという物語構造の分析、木の人間が「造物主に感謝しなかった」ことを理由に失敗と判定される点: [What It Means to Be Human Theme in Popol Vuh — LitCharts](https://www.litcharts.com/lit/popol-vuh/themes/what-it-means-to-be-human)
– スペイン征服下での弾圧が進む中、都合の悪い部分を含めた伝承の全体をありのまま書き残そうとした『ポポル・ヴフ』の書き手たちの意図についての分析: [Analysis: Creation Story of the Maya, from the Popol Vuh — EBSCO Research Starters](https://www.ebsco.com/research-starters/religion-and-philosophy/analysis-creation-story-maya-popol-vuh)

