古代メソポタミアの「ウルの王」ゲームは、占いの儀式だったのか――王家の墓に眠っていた盤が、4000年後に星占いの粘土板とつながるまで

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王家の墓の底に、小さな木箱が残っていた

1926年、イラク南部の遺跡ウル。

発掘を率いていたのは、イギリス人考古学者レナード・ウーリーだった。彼が掘り進めていたのは、のちに「王家の墓地」と呼ばれることになる一角だ。

墓の中には、金の短剣やラピスラズリの装飾品が並んでいた。そして、王や王妃とみられる人物のそばには、おびただしい数の遺体があった。プアビ王妃の墓には25人。その隣、王のものとされる墓には75人。「大死者坑」と呼ばれる墓には74人。兵士や侍女とみられる遺体が、整然と列をなして横たわっていた。毒を飲んで自ら命を絶ったとする説が有力だが、外傷の跡が残る遺体も確認されている。

この、生と死の境界のような場所から、ウーリーはもうひとつのものを見つけている。貝殻・赤い石灰岩・ラピスラズリを組み合わせて作られた、小さな箱のような盤だ。20個のマスが並び、バラの花のような模様がいくつか刻まれている。

遊び方はわからなかった。だが、これがゲーム盤であることだけは、誰の目にも明らかだった。

のちにこの盤は、発見地の名を取って「ウルの王(Royal Game of Ur)」と呼ばれるようになる。

※実際の盤の写真は、大英博物館の公式コレクションページで見られる。→ 大英博物館 Collection Online「The Royal Game of Ur」

遊び方が失われて、4000年

年代測定によれば、この盤は紀元前2600年から2400年ごろのものだ。人類最古のボードゲームのひとつということになる。

ウーリーは1922年から1934年にかけてウルを発掘し、同じ形式の盤を都合5枚見つけている。だが、駒の動かし方も、サイコロの目の意味も、記録は残っていなかった。ゲーム盤という「モノ」だけが、遊び方という「情報」を伴わずに、4000年の時を超えてしまっていたのだ。

長らく、この空白は埋まらないままだった。

粘土板が、遊び方を語りだす

転機は1980年代に訪れる。

大英博物館のキュレーター、アーヴィング・フィンケルが、収蔵庫に眠っていた1枚の楔形文字粘土板を読み解いた。書いたのは、イッティ・マルドゥク・バラートゥという名の書記官。6代にわたって天文学などの学問を扱ってきた、由緒ある書記官一族の生まれだった。粘土板の奥付には、紀元前177年11月3日という日付が刻まれている。先行する学者イディン・ベルの写しだという。

紀元前2600年ごろに生まれたゲームの遊び方が、紀元前177年、実に2400年以上のちに書き記されていたことになる。

フィンケルはこの粘土板をもとに、盤のマス目・駒の動き・サイコロの出目までを含めた遊び方の全体像を復元した。復元されたルールはこうだ。2人のプレイヤーが、それぞれ7個の駒を使って共通の20マスを競走する。サイコロ代わりに使うのは、四面のうち2つの角に印がついた「四面体サイコロ」を4個。出た印の数だけ駒を進める。バラの模様が入ったマスに止まると、もう一度サイコロを振れるうえ、そのマスにいる駒は相手に取られない。相手の駒がいるマスに自分の駒を進めれば、相手の駒はスタート地点まで戻されてしまう。

もう1枚、これより数百年古いとみられる粘土板も参照されている。20世紀初頭に個人のコレクションに渡ったのち、第一次世界大戦中、写真家のスタジオで焼失してしまった。現存するのは、焼ける前に撮られた写真だけだ。その奥付には、このゲームの別名として「犬の群れ」と記されている。

マスに添えられた、「お告げ」のような一文

ここからが、この記事の本題だ。

イッティ・マルドゥク・バラートゥの粘土板には、単なる遊び方の説明にとどまらない記述がある。盤の特定のマスに、占いのような一文が添えられているのだ。

「あなたは友を見つけるだろう」
「あなたは上等なビールを手に入れるだろう」
「あなたは肉を切り分けるだろう」

粘土板の記述は、12の星座と結びつけられている。双子座には「友を見つける」、射手座には「上等なビールを手に入れる」、水瓶座には「肉を切り分ける」……といった具合だ。先ほどの、焼失した古い粘土板の裏面にも、似た形式の一文が残っている。ただしこちらは、「ビールの記録が残らないだろう」「挽けない上臼」といった、どこか不穏な調子のものが多い。

サイコロを振り、コマを進める。止まったマスには、遊びの結果だけでなく、プレイヤー自身の未来を暗示する言葉が待っている。これはもう、単なるすごろくとは呼べない何かだ。

粘土板に楔形文字を刻む書記官の手のシルエット、占いの文言を表すイメージ

では、これは「占いの儀式」だったのか

答えを急ぐ前に、フィンケル自身の見解を見ておきたい。

フィンケルは、この盤が「ゲームと占い、二つの機能を併せ持っていた」と述べている。ただし、その比重については慎重だ。主たる用途はあくまで「遊び」であり、占いの要素は「のちに接ぎ木された、副次的な発展」だった可能性が高いという。

つまり、紀元前2600年ごろ、ウルの王家の墓に収められた最初期の盤が、はじめから占いの道具として作られたとは言い切れない。星座と結びついた占いの文言が確認できるのは、紀元前177年の粘土板からだ。その間には、2000年以上の隔たりがある。

もともとは純粋な遊びだったものに、時代が下ってから、星占いの知識を持つ書記官たちが意味づけを重ねていった。そう考えるほうが、史料に忠実な見方といえそうだ。

それでも、遊びと信仰は近い場所にあった

とはいえ、ゲームと占いが無関係だったとも言い切れない。

古代メソポタミアには、羊の肝臓の形をした模型を使った内臓占いの伝統があった。研究者たちは、こうした模型とゲーム盤の造形に共通点を指摘している。盤に刻まれたバラの模様も、豊穣と戦いの女神イナンナ(イシュタル)と結びつけて解釈されることがある。サイコロを振って結果を決めるという行為そのものが、当時の人々にとっては「運命」や「神々の意志」に判断を委ねる行為だったのではないか、という見方もある。

遊びの勝敗を、目に見えない力に委ねる。そういう感覚は、占いと地続きだったのかもしれない。

王家の墓に、なぜゲーム盤があったのか

もうひとつ、気になることがある。なぜこの盤は、大量の殉死者とともに埋葬されていたのか。

副葬品として金や宝石を納めるのは、古代の王墓ではよくあることだ。だが、遊戯具までも一緒に埋めたということは、死後の世界でも遊びを楽しめるように、という願いがあったと考えるのが自然だろう。あるいは、生と死の境目で行われる何らかの儀礼の一部だったのかもしれない。

このあたりは推測の域を出ないが、少なくとも、当時の人々にとってこのゲームが「日常の暇つぶし」以上の重みを持っていたことは、間違いなさそうだ。シリアからエジプトへ、「20マスのゲーム」の旅

このゲーム自体は、ウルだけのものではなかった。

紀元前1800年ごろまでにレバント地方(現在のシリア・レバノン一帯)へ、紀元前1600年ごろまでにはエジプトへ伝わったとみられている。その後、キプロスやヌビアにも広がった。盤はイラク・イラン・シリア・エジプト・レバノン・スリランカ・クレタ島など、広い範囲で見つかっている。紀元前705年ごろのアッシリアの王宮(コルサバード)には、床に直接マス目を刻んだ跡まで残っている。

エジプトでは、独自のゲーム「セネト」と混ざり合うように定着していった。形は変わっても、「マスを進み、運を天に委ねる」という核の部分は、広い地域で共有され続けたことになる。

4600年後も、盤は生きている

このゲームの生命力を示す、印象的な話がもうひとつある。

インド南部、コーチンのユダヤ人コミュニティには、「アーシャ」と呼ばれる遊びが伝わっていた。1946年にイスラエルへ移住したルビー・ダニエルという女性は、「故郷を離れてから、誰もこの遊びをしていない」と証言している。1980年代、フィンケルがこの遊びの存在を知ったとき、ルールを覚えていた高齢者は、すでに2、3人しか残っていなかった。

コマは12個の小さな貝殻。サイコロ代わりに、背を割った大きめの子安貝を5個使う。盤の形は少しずれているものの、20マスという構成は、ウルの王のそれと変わらない。

ルビーによれば、この遊びは特に女性や少女たちの間で親しまれ、「アヴの月」と呼ばれる9日間の喪の期間によく行われていたという。12個の貝殻は、イスラエルの12部族になぞらえられていた。

紀元前2600年ごろ、メソポタミアの王家の墓に納められたゲームが、形を変えながら、20世紀のインドで、喪に服す人々の手の中にあった。そこにもまた、「運を天に委ねる遊び」と「弔い」という、遊戯と信仰の近さが顔をのぞかせている。

そして現在、この盤はイラクそのものにも戻りつつある。考古学者アシュリー・バーロウは、現地の職人ホシュマンド・ムワファクと協力し、アフガニスタン産のラピスラズリやパキスタン産のカーネリアンを使った復刻盤を製作した。北イラクで遊び方を広める活動を始め、バグダッドやモスルといった大都市への展開も見据えているという。「自分たちの誇れるメソポタミアの歴史を、再教育したい。人を分断するのではなく、結びつけるものとして」。バーロウはそう語っている。

子安貝を並べたコーチンのユダヤ人の遊び「アーシャ」に手を伸ばすシルエット

まとめ:占いだったのか、遊びだったのか

「ウルの王」は、占いの儀式だったのか。

史料をたどるかぎり、答えは「両方」に近い。紀元前2600年ごろの起源は、あくまで純粋な遊びだった可能性が高い。だが、少なくとも紀元前177年までには、星座と結びついた「お告げ」が添えられる、遊びと占いを兼ねた道具になっていた。

その原型は、王家の大量殉葬という、生と死が隣り合う場所に眠っていた。そして4000年以上のちには、遠く離れたインドの地で、喪の儀礼の中に生き続けていた。

サイコロを振り、マスを進む。たったそれだけの単純な行為の中に、古代の人々は「友情」も「未来」も、そして「死者への祈り」までも、重ねて見ていたのかもしれない。

出典・参考情報源

ウルの王ゲームの起源・年代、ウーリーによる発掘、遊び方が失われていたこと、フィンケルによるルール復元の詳細(駒・四面体サイコロ・バラのマスの効果)、伝播の経路(レバント・エジプト・キプロス・ヌビア等)、コーチンのユダヤ人コミュニティの「アーシャ」との関連: Royal Game of Ur — Wikipedia

イッティ・マルドゥク・バラートゥの粘土板(紀元前177年11月3日、6代続く学者一族の出自、先行する学者イディン・ベルの写しであること)、星座と結びついた占いの文言の具体例、フィンケル自身による「ゲームと占いの二重機能」という見解とその留保(占いは副次的発展という慎重な立場)、焼失したもう1枚の粘土板(「犬の群れ」という別名、裏面の不穏な文言)の詳細: Irving Finkel, “On the Rules for the Royal Game of Ur” PDF

20マスのゲームの中東・地中海地域への広がり、コルサバードの王宮に刻まれたマス目、肝臓型模型を用いた内臓占いとゲーム盤の造形上の関連、バラの模様とイナンナ/イシュタルとの結びつき: Twenty Squares: An Ancient Board Game — The Metropolitan Museum of Art

ウル王家の墓地の発掘時期(1922年〜、王墓の探索は1926年から)、プアビ王妃の墓(殉死者25人)、隣接する王の墓(75人)、大死者坑(74人)、副葬品にゲーム盤が含まれていたこと: The royal tombs of Ur reveal Mesopotamia’s ancient splendor — National Geographic

コーチンのユダヤ人女性ルビー・ダニエルの証言(1946年のイスラエル移住、遊び方を知る高齢者が2〜3人しか残っていなかったこと)、「アーシャ」の駒・サイコロの詳細、アヴの月の喪の儀礼との結びつき、12部族との対応: Aasha – and the Royal Game of Ur

現代イラクでの復刻・普及活動(考古学者アシュリー・バーロウと職人ホシュマンド・ムワファクによる復刻盤製作、北イラクでの活動、バグダッド・モスルへの展開構想): Royal game of Ur: the ancient boardgame making a comeback in Iraq — euronews

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