童歌の謎(5) 熊本弁が一言も出てこない、”熊本の歌”

手鴠をつく子供のシルエットと狸の影。熊本と川越で発祥地論争が続く「あんたがたどこさ」のイメージ わらべ歌

てまりをつきながら、歌う

想像してほしい。

女の子が手鞠をつきながら、リズムよくこう歌う。

「あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 船場さ 船場山には狸がおってさ それを猟師が鉄砲で撃ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ それを木の葉でちょいとかぶせ」

正式な題名は「肥後手まり唄」。

歌詞の中に「肥後」「熊本」「船場」と、これでもかというほど熊本の地名が詰め込まれている。

誰が聞いても、舞台は熊本以外にありえないように思える。

ところが——この歌をめぐっては、長年「本当の発祥地は熊本ではなく、埼玉県川越市ではないか」という異説が根強く語られてきた。今回はその奇妙な論争を追いかける。

決定的な違和感:これは、熊本弁じゃない

川越説の出発点は、驚くほどシンプルだ。歌詞に使われている言葉そのものが、熊本弁ではなく、完全な関東方言だという指摘である。

これは今回に始まった話ではなく、古くから研究者たちが指摘してきた点だという。熊本を舞台にした歌のはずなのに、熊本の言葉で歌われていない——この一点だけで、「熊本のことが歌われているからといって、熊本で生まれた歌だとは限らない」と考える熊本の研究者も少なからずいる。

官軍兵士に、川越の子供たちが尋ねた

童謡研究家・太田信一郎の著書『童謡を訪ねて』は、こんな川越発祥説を紹介している。

舞台は戊辰戦争。彰義隊の残党である振武隊を追った薩長軍が川越城に進駐し、城に隣接する仙波山(仙波古墳群のある一帯)に駐屯した。このとき、熊本藩出身の兵士に対して地元の子供たちが「あんたがたどこから来たの」と尋ね、兵士が「肥後だよ、肥後の熊本だよ、熊本の船場だよ」と答えるやり取りが、そのまま歌になった、という説だ。「肥後どこさ 熊本さ」という問答は、肥後の地理に不案内な関東の子供たちだからこそ成り立つ会話で、官軍に帰順した川越藩の子供たちが、立派な銃を持った兵士のご機嫌を取っている場面が歌われているのだとも言われている。

しかも、この仙波山には「古狸」の異名を持つ徳川家康を祀る仙波東照宮があり、すぐそばには前回取り上げた「通りゃんせ」の発祥候補地の一つ、三芳野神社もある。同じ川越の、しかも隣接するエリアに、二つの謎めいた童歌の発祥地候補が並んでいるというのは、なかなかできすぎた偶然に思える。

もっとも、この川越説には弱点もある。地元同士の熊本人が「あんたどこ出身?」「肥後だよ」と聞き合うのは不自然で、熊本出身の兵士に対して川越の子が「うちの仙波山にも狸がいるよ」と返したと見るほうが自然だ、という反論もある。そして肝心の太田の著書自体、「地元川越市の郷土史研究家によって明らかにされています」としか書いておらず、具体的な出典は示されていない。

ブラタモリが見せた、熊本の”せんば山”

一方の熊本説にも、それなりの裏付けがある。

2016年放送のNHK『ブラタモリ』熊本市編では、熊本城の堀を掘った際に出た土を盛り上げた土塁が、地元で「せんば山」と呼ばれていたことが紹介された。

川越の郷土史研究家で川越市史の編纂にも携わった岡村一郎も、自著の中で「川越でなく熊本城下の洗馬山のほうが正しい」とはっきり述べている。

現在も、歌の舞台とされる熊本市の船場町近くにある熊本市電・洗馬橋停留場には、1992年に狸の像が設置され、電車が近づくとこの曲が流れる仕掛けになっている。地元・熊本では、この歌は完全に”我が町の歌”として定着している。

タヌキではなく、エビだった可能性

歌詞のバリエーションにも触れておきたい。今広く知られているのは「船場山には狸がおってさ」という一節だが、1953年発行の熊本政治新聞社『肥後民謡』には、タヌキではなくエビが登場するバージョンが紹介されている。

「あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 船場さ せんば川にはえびさがおってさ それを漁師が網さで捕ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ」

さらに九州の一部地域では「それを木の葉でちょいと隠せ」ではなく「うまさのさっさっさー」という締めくくりで伝わっている場合が多いという。歌の舞台とされる船場橋一帯でも、この「うまさのさっさっさー」バージョンが広く伝わっており、こちらこそが原型ではないかという見方もある。

「問答歌」という形式そのものが、比較的新しい

もう一つ興味深いのは、「あんたがたどこさ」のような、二人以上のやり取りの形で進行する「問答歌」というジャンル自体が、幕末から明治初期にかけて生まれた手鞠歌の形式だとされている点だ。

つまりこの歌の骨格自体、江戸期以前までは遡らない、比較的新しい部類の童歌だということになる。

決め手なきまま、令和を迎える

結局、熊本説にも川越説にも、それぞれ相応の根拠と、それぞれの弱点がある。歌詞の言葉づかいという状況証拠は川越説に有利に見えるが、川越説の核心となる一次資料は今も特定されていない。一方の熊本説は、地名の一致という強力な材料を持ちながらも、「なぜ熊本弁で歌われていないのか」という素朴な疑問には、今のところ明確に答えられていない。

前回の「通りゃんせ」と合わせて眺めると、川越という一つの町が、二つの有名な童歌の発祥候補地として名乗りを上げているという構図が浮かび上がってくる。偶然なのか、それとも川越という土地が持つ何らかの磁力なのか——その答えもまた、歌詞の向こう側に留まったままだ。

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次回予告

次回は、蓮の花が開く様子を子供たちの輪の広がりに重ねた「ひらいたひらいた」。都市伝説的などぎつさはないが、江戸期から続く息の長い伝承の正体を追う。


出典・参考情報源

※川越説の直接的な一次出典(太田信一郎の著書が引用する郷土史研究家の調査)は原典未確認のため、対立する熊本説・ブラタモリでの現地紹介と併記する形で扱った。

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