輪が、大きくなったり小さくなったり
想像してほしい。
幼稚園や保育園の教室で、子供たちが手をつないで輪になる。歌に合わせて、輪はぐっと大きく広がったかと思えば、また小さくすぼまっていく。
「ひらいた ひらいた 何の花がひらいた れんげの花がひらいた ひらいたと思ったら いつのまにかつぼんだ つぼんだ つぼんだ 何の花がつぼんだ れんげの花がつぼんだ つぼんだと思ったら いつのまにかひらいた」
ここまで5回にわたって、かごめかごめ、通りゃんせ、ずいずいずっころばし、花いちもんめ、あんたがたどこさと見てきたが、正直なところ、この歌に関しては拍子抜けするかもしれない。陰謀論もなければ、埋蔵金伝説もない。人身売買説も、被差別部落説も存在しない。今回は、むしろその”何もなさ”にこそ注目してみたい。

珍しく、本当に江戸時代から確認できる
これまでのシリーズで繰り返し出てきたのが、「古そうに見えて、実は歴史が意外と浅い」というオチだった。
「かごめかごめ」の”鶴と亀”は明治以降の付加、「花いちもんめ」は江戸・明治・大正の記録に存在しない昭和初期の産物——という具合に。
ところが「ひらいたひらいた」は違う。文政3年(1820年)頃、江戸・浅草を中心に童謡を集めた行智の『童謡集』に、この歌はすでに「蓮華」という題名で採録されている。
つまりこの歌は、これまで扱ってきたどの童歌よりも先に、確実に文献上の裏付けを持っているのだ。
その後、明治に入ると、フレーベル式など西洋由来の遊戯唄に押され、こうした江戸期からの遊戯唄は一度衰退の憂き目に遭う。しかし明治30年代頃の唱歌教育改革をきっかけに見直され、1949年発行の『子供うた風土記』では、現在わたしたちが歌っているものとほぼ同じ歌詞が確認できる。
違いはわずかに、今日「いつのまにか」と歌われる部分が、当時は「やっとこさと」だった程度だ。
300年近くにわたって、この歌はほとんど姿を変えずに歌い継がれてきたことになる。
「れんげ」は、レンゲソウではない
歌詞の中の「れんげの花」を、多くの人は春先にピンク色の花を一面に咲かせるレンゲソウ(ゲンゲ)だと思い込んでいる。しかしこれは誤解で、正しくはハス(蓮)の花を指している。

これが単なる言葉選びではないところが、この歌の面白さだ。ハスの花は7月から8月にかけて白やピンクの花を咲かせるが、早朝に花開き、昼になると再び閉じてしまうという特徴的な生態を持つ。「ひらいたと思ったらいつのまにかつぼんだ」「つぼんだと思ったらいつのまにかひらいた」——この歌詞は、単なる想像上の情景ではなく、ハスという植物の実際の一日の姿を、驚くほど忠実になぞっているのだ。
「蓮華」という、少し特別な花
もう一つ触れておきたいのが、「蓮華」という呼び名そのものが持つ重みだ。ハスはインド原産の水生植物で、仏教の伝来とともに「蓮華」という名で日本に定着した。泥の中から茎を伸ばし、清らかな花を咲かせるその姿は、仏教において極楽浄土を象徴する特別な花として扱われてきた。
ただの遊戯唄に、仏教的な象徴性を持つ花の名前がそのまま使われている——このこと自体は特に隠された意味を示すものではなく、単に当時の子供たちにとって身近だった花が歌に取り入れられただけだろう。
だが、他の童歌が次々と陰謀論や怪談めいた解釈を後付けされていった中で、この歌だけがそうした”物語化”をほとんど免れてきたのは、興味深い対比と言える。
なぜこの歌だけ、都市伝説にならなかったのか
理由を断定することは難しいが、いくつかの見立てはできる。
歌詞の意味がハスの生態という自然現象にきちんと対応しており、解釈の”隙間”が少ないこと。
歌詞自体に矛盾した表現や不気味な単語(「後ろの正面」のような)がほとんど含まれていないこと。そして何より、輪が大きくなったり小さくなったりするという遊び方そのものが、視覚的にも歌詞の内容と素直に一致していて、余計な深読みを誘わないこと。
これまで見てきた歌の多くが、「意味不明な言葉の並び」や「矛盾した表現」を抱えていたからこそ、後世の人々が想像力を働かせる余地を残していた。
「ひらいたひらいた」には、その”余白”がほとんどない。都市伝説が生まれるかどうかは、歌詞そのものの内容以上に、聞く側の想像力をどれだけ刺激する「隙」があるかにかかっているのかもしれない。

次回予告
次回は、九州・長崎に伝わる方言まみれの童歌「でんでらりゅうば」。意味を知れば知るほど切なくなる、繰り返しの中に隠された小さな「あきらめ」の物語を追う。
出典・参考情報源
- ひらいたひらいた – Wikipedia(行智編『童謡集』1820年頃、赤城泰舒『子供うた風土記』1949年への言及を含む)
- なんの花がひ〜らいた 蓮華の花が・・・ | 西の京散歩


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