なぜアステカは、そこまでして生贄を捧げたのか――「野蛮」で片付けると見落とす、四つの層の理屈

頭蓋骨を積み上げた円形の塔(ウエイ・トソンパントリ)のシルエット、背後に暖色の光 アステカ神話

頭蓋骨の塔から出てきたのは、戦士だけではなかった(2015年〜発掘中)

前編では、テノチティトランの建国神話が、実際の記録とどれだけ食い違っているかを見た。約束の地は誰も欲しがらなかった沼地で、神話が整えられたのは勝利の後。都合の悪い記録は焼かれたとも伝わっていた。

では、その帝国は実際に何をしていたのか。

メシカと言えば、大規模な人身供犠のイメージが強い。テノチティトランの中心にあった大神殿(テンプロ・マヨール)の遺跡発掘は今も続いていて、その一角で見つかったのが「ウエイ・トソンパントリ」と呼ばれる、頭蓋骨を積み上げた円形の塔だ。

2015年に発掘が始まって以降、これまでに676個の頭蓋骨が確認されている。塔の直径はおよそ6メートル。発掘はまだ底に到達しておらず、続いている。

これまでの理解では、生贄にされたのは主に戦争で捕らえた敵の戦士だとされてきた。スペインの征服者たちが書き残した記録も、そういう筋書きだった。ところが実際に発掘された頭蓋骨を調べたところ、成人男性の戦士だけでなく、相当数の女性や子どもの頭蓋骨が含まれていることが分かった。

これは、これまで信じられてきた「戦争捕虜を見せしめにする」という説明だけでは、うまく説明がつかない発見だ。発掘に関わった国立人類学歴史研究所の研究者ロドリゴ・ボラーニョスは、「これまでの記録にない何かが起きている」という趣旨のコメントを残している。研究チームは、犠牲になった女性や子どもの一部は、奴隷として扱われていた人々だったのではないかという可能性も検討しているという。

征服者側の記録すら、実際に地面から出てくるものと食い違う。神話だけでなく、「征服者が書き残した歴史」自体も、まるごと鵜呑みにはできない、ということだ。

では、そもそもの疑問に戻ろう。メシカは、なぜここまでの規模で生贄を必要としたのか。理由は一つではない。少なくとも四つの層が重なっている。

一つ目、宇宙論的な理由――「世界は血で維持されている」という信仰

メシカの宇宙観の中核にあるのが、入門編でも触れた「第五の太陽」の神話だ。テオティワカンで、暗闇の中の世界を照らすため、誇り高き神テクシステカトルと、病を患った謙虚な神ナナワツィンの二柱が、自ら聖なる炎に飛び込んで太陽と月になった。ところが太陽は動かなかった。そこで他の神々も、自分の血と命をすべて差し出し、その犠牲によって、ようやく太陽は天を運行し始めた。これが神話の骨子だ。

聖なる炎に飛び込む二柱の神のシルエット、左右対称のピラミッドと炎の光

つまりメシカにとっての理屈はこうなる。「神々が人類より先に、人類のために血を流した。だから人類は、その返礼として神々に血を返さなければならない」。この考え方には「ネシュトラワリ(負債の返済)」という言葉まで用意されていた。供犠は、単なる儀式ではなく、この負債を返し続けるための、根本的な正当化原理だったわけだ。

戦いと太陽の化身でもあるウィツィロポチトリは、毎日、夜の闇や星々と戦いながら昇ってくると信じられていた。この戦いを続けるための「食糧」が、人間の心臓と血液――「チャルチウアトル(貴重な水)」だ。供犠をやめれば太陽は昇らなくなり、世界は終わる。彼らにとってこれは比喩ではなく、宇宙を成り立たせている物理法則のようなものだった。

しかも供犠のやり方は、捧げる相手の神によって細かく決まっていた。

供犠の様式意味
ウィツィロポチトリ(太陽・戦の神)心臓の摘出太陽を「養う」
トラロク(雨と農耕の神)幼い子どもの犠牲(涙が雨を呼ぶとされた)農業サイクルの維持
シペ・トテック(春と再生の神)皮剥ぎ、神官がその皮をまとう種子の発芽・脱皮の象徴
テスカトリポカ(運命の神)1年間「神として生きた」青年の供犠王権と宿命の再演

つまりこれは、ただの殺害ではなく、神話をその都度、体を張って再演する宗教儀礼だった、という側面がある。

二つ目、政治的な理由――帝国支配のための道具

もっと現実的な理由もある。三国同盟(テノチティトラン・テスココ・トラコパン)は、隣接するトラスカラなどの都市と、「花戦争(シウコヤオトル)」と呼ばれる独特な戦争を定期的に行っていた。この戦争の目的は、領土を奪うことではなく、互いに供犠用の捕虜を確保することにあった。

この仕組みには、いくつもの狙いが重なっていた。戦士階級が功績を上げ続ける場を常に確保できること。敵対する部族を、滅ぼさない程度に弱体化させ続けられること(殲滅してしまえば、次の供犠源が絶えてしまう)。そして、供犠という儀礼そのものが、王権を見せつける国家的なスペクタクルとして機能したことだ。

特に象徴的なのが、1427年の権力交代からちょうど60年後にあたる1487年、王アウィツォトルによるテンプロ・マヨール大増築の献堂式だ。伝承では、諸都市の首長たちを招いた4日間の式典で、数千から数万人規模の供犠が行われたとされる(記録者によって「約2万人」「8万人超」と数字が大きく揺れており、後述するとおりどちらも誇張が疑われている)。実数がどうあれ、これは服属都市への明確なメッセージだったはずだ。「反逆すれば、次はお前たちの番だ」というわけだ。実際、テンプロ・マヨール発掘に関わった考古学者たちは、頭骨棚(トソンパントリ)を分析し、少なくとも数百から数千規模の頭蓋骨が確実に埋納されていたことを実証している。誇張はあったとしても、供犠そのものが行われていたことは、疑いようのない史実だ。

三つ目、社会・経済的な理由――身分上昇の装置と、儀礼的カニバリズムの謎

メシカの社会では、平民であっても、戦場で捕虜を取ることで身分を上げることができた。1人捕らえれば見習い戦士、複数人捕らえれば鷲やジャガーの戦士団への入会が認められる、というように、供犠のシステムは社会の階層を動かす仕組みそのものでもあった。供犠をやめれば、この社会構造全体が揺らぐ、という側面もあったわけだ。

もう一つ、議論が分かれてきたのが儀礼的カニバリズムの扱いだ。供犠のあと、遺体の一部(主に太もも)を、捕らえた側の家族が儀礼的に食べていたという記録が、当時の記録者(サアグンやドゥラン)によって残されている。1977年、人類学者マイケル・ハーナーは、メソアメリカには牛や豚のような大型家畜がいなかったことから、人肉が重要なタンパク源になっていたという「タンパク質欠乏説」を発表し、大きな論争を呼んだ。ただし、この説は翌1978年、研究者バーナード・オルティス・デ・モンテヤーノらによって学術誌『サイエンス』で反論されている。トウモロコシ・豆・アマランス・湖の藻(スピルリナ)を組み合わせれば必須アミノ酸は十分に足りること、儀礼的カニバリズムは貴族や捕らえた本人に限られ、量的にタンパク源と呼べる規模ではなかったことなどが根拠だ。現在の研究では、これは栄養目的ではなく、犠牲者に宿った神聖性を取り込むための、秘蹟的な行為だったとする見方が主流になっている。

四つ目、心理・存在論的な理由――「名誉ある死」という価値観

現代の感覚でいちばん理解しづらいのが、この部分かもしれない。メシカの死後観では、死に方によって行き先が決まるとされていた。戦場で死んだ戦士や、供犠にされた人、出産で亡くなった女性は、太陽の楽園にたどり着き、4年後には蜂鳥や蝶に姿を変えるとされた。溺死や落雷で死んだ人は、雨神トラロクの豊かな楽園へ。それ以外の、病や老いで亡くなった大多数の人々は、9つの試練を4年かけて越えていく冥界ミクトランへ向かうとされた。

つまり戦場で死ぬこと、あるいは供犠にされることは、当時の人々にとって、病や老衰よりもずっと望ましい、いわば「名誉ある死」だったわけだ。

鳥や蝶の影が羽のように舞い上がる倒れた戦士のシルエット

四つを重ねると

ここまでの四つを重ねると、メシカにとっての人身供犠は、単なる残虐な風習ではなく、宇宙・国家・社会・個人の死生観を同時に支える、彼らなりに筋の通った制度だった、という姿が見えてくる。供犠をやめることのほうが、彼らの世界観の中では、むしろ「太陽を止め、雨を止め、作物を枯らす」不合理な選択だったのかもしれない。

ただし、規模については慎重に

最後にもう一つ、重要な留保を挟んでおきたい。数字の話だ。

スペインの修道士ディエゴ・デュランは、1487年の献堂式で4日間に80,400人が生贄にされたと記録した。しかしこの数字を単純計算すると、1分あたり14人を処理し続けたことになり、物理的にほぼ不可能だという指摘がある。当時を知る年配のメシカの人々が宣教師に語った証言では、犠牲者数は4,000人程度だったとも伝わっている。征服を道義的に正当化したいスペイン側には、メシカを実際以上に「野蛮」に見せる動機があったことも見逃せない。

現代の研究者たちが見積もる数字も、帝国全体で年間2万人から25万人という、かなり幅の広いものにとどまっている。しかも、この控えめな数字ですら、実際に発掘で見つかっている遺骨の量(数十体分の骨格と、数千個程度のばらばらの骨や頭蓋骨)と比べると、まだ埋まらない差がある。争点は「供犠があったかどうか」ではなく、あくまで「規模と頻度」だ。正確な人数は、今のところ誰にも分かっていない、というのが正直なところだろう。

中編のまとめ、そして後編へ

前編では、建国神話が権力によって作られたものだと見た。中編では、その帝国が実際にやっていたことと、その理屈を見た。

ここで、ひとつ奇妙なことに気づく。

メキシコの国旗の中心にいるワシは、この帝国から受け継がれたものだ。ところがそこに描かれているのは、頭蓋骨の塔でも、心臓を捧げる神官でもない。サボテンの上に止まった一羽の鳥、つまり建国神話のほうだけだ。

500年後の人々は、この帝国から何を受け継ぎ、何を切り離したのか。そもそも、あのワシとヘビは、本当にメシカの神話どおりの姿なのか。

後編では、その話をする。

出典・参考情報源

  • テンプロ・マヨール遺跡で発掘が続く「ウエイ・トソンパントリ」(頭蓋骨の塔、直径約6メートル)、2015年の発掘開始以降676個の頭蓋骨が確認されていること、戦士だけでなく女性・子どもの頭蓋骨が相当数含まれていたという発見、研究者ロドリゴ・ボラーニョス(国立人類学歴史研究所)のコメント、奴隷であった可能性の検討: How a Creepy Tower of Skulls Is Changing What We Think We Know About The Aztecs — ScienceAlert
  • メシカの生贄の宗教的理由(太陽神ウィツィロポチトリが闇と戦い続けており、太陽を動かし続けるために神々が自らを犠牲にしたという神話、人間はその「借り」を血で返済する必要があるという考え方)、政治的理由(トラスカラなどとの「花戦争」が捕虜獲得を目的とした戦争であったこと、頭蓋骨の展示が朝貢国・敵対勢力への力の誇示として機能したこと)、DNA分析で犠牲者の多くが外部出身者(戦争捕虜や奴隷)だったとみられること: Did the Ancient Aztecs Really Perform Human Sacrifice? — HISTORY
  • 1487年アウィツォトル王代のテンプロ・マヨール落成式でのスペイン人修道士ディエゴ・デュランによる80,400人生贄説、この数字が4日間で1分14人という物理的に不可能に近い計算になるという指摘、当時のメシカの人々自身が宣教師に語った4,000人程度という証言、現代の研究者による帝国全体で年間2万〜25万人という幅の広い推定、発掘で実際に見つかっている遺骨量とのギャップ: How Many Were Killed In Aztec Culture as Human Sacrifices? — History on the Net
  • 儀礼的カニバリズムをめぐる論争:人類学者マイケル・ハーナーが1977年に発表した「タンパク質欠乏説」(メソアメリカに大型家畜がいなかったため人肉が重要なタンパク源だったとする説)と、翌1978年に研究者バーナード・オルティス・デ・モンテヤーノらが学術誌『サイエンス』で行った反論(トウモロコシ・豆・アマランス・藻類で必須アミノ酸は充足していたこと、儀礼的カニバリズムが貴族・当事者に限定された秘蹟的行為であったこと): Aztec Cannibalism: An Ecological Necessity? — Science (1978)The ecological basis for Aztec sacrifice — Harner (1977), ResearchGate掲載情報
  • メシカの死後観:戦死者・供犠にされた人・出産で亡くなった女性が太陽の楽園にたどり着き4年後に蜂鳥や蝶になるとされたこと、溺死・落雷死の場合は雨神トラロクの楽園トラロカンへ、それ以外の病死・老衰の場合は9つの試練を4年かけて越える冥界ミクトランへ向かうとされたこと: Mythological Journey to the Aztec Lands of the Dead — WilderUtopia

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